ソードアートオンライン 外伝 2 Four Days 九里史生     一日目  アスナは毎朝の起床アラームを七時五十分にセットしている。  なぜそんな中途半端な時間なのかというと、キリトの設定時刻が八時ちょうどだから、である。十分早く目を覚まし、ベッドに入ったまま、隣りで眠る彼を見ているのが好きなのだ。  今朝もアスナは、やわらかい木管楽器の音色によって目覚めたあと、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖をつきながらキリトの寝顔を眺めていた。  出会ったのが半年前。攻略パートナーとなったのが二週間前。結婚して、ここ二十二層の森の中に引っ越してきてからはわずか六日しか経っていない。誰よりも愛する人だが、実のところ、キリトに関してはまだまだ知らない事も多い。それは寝顔ひとつとっても言えることで、こうして眺めていると、だんだん彼の年齢がわからなくなってくる。  わずかに斜に構えた落ち着いた物腰のせいで、自分より少し年上かなと普段は思っている。しかし深い眠りに落ちているときのキリトには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがあるため、なんだか遥かに年下の少年のようにも見えてしまう。  歳くらい、訊いてもかまわないだろう——とは思う。いかに現実世界の話を持ち出すのが禁忌とは言え、二人はもう夫婦なのだから。歳どころか、現実に戻ってからまた出会うためには、本名、住所から連絡先まで伝え合っておいたほうがいいのは確実だ。  しかし、アスナはなかなかそれが言い出せないでいる。  現実世界のことを話した途端、ここでの『結婚生活』が仮想の、薄っぺらなものになってしまいそうで怖いからだ。アスナにとって今一番大切な、唯一の現実はここでの穏やかな日々であって、たとえこの世界からの脱出がかなわぬまま現実の肉体が死を迎えることがあるとしても、最後の瞬間までこの暮らしが続いてくれるなら悔いはない。  だから、夢から醒めるのは、もう少し後に——。そう思いながら、アスナはそっと手を伸ばし、眠るキリトの頬に触れた。  それにしても、幼い寝顔だ。  長めの黒い前髪と、その下に光るやや険のある眼のせいで起きているときは強面の印象があるが、こうして見ていると線の細い顔立ちは少女的ですらある。こんな時、アスナはいつも不思議な感情にとらわれてしまう。  キリトの強さについては今更考えることは何もない。ベータテストの時から蓄積した途方もない経験と、絶え間ない攻略で獲得した数値的ステータス、そしてそれらを支える判断力と意思力。血盟騎士団リーダーのヒースクリフには敗れはしたものの、キリトはアスナの知る限り最強のプレイヤーだ。どんなに厳しい戦場でも、傍らに彼がいる限り不安を味わったことはない。  しかし、寄り添って横たわるキリトを眺めていると、なぜか彼が傷つきやすいナイーブな弟ででもあるかのような気持ちがきゅうっと胸の奥に湧き上がってきて、抑えられなくなる。守ってあげなくちゃ、と思う。  そっと息をつきながら、アスナは身を乗り出し、キリトの体に腕をまわした。かすかな声で囁きかける。 「キリト君……大好きだよ。ずっと、一緒にいようね」  その途端、キリトがわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。二人の視線が至近距離で交錯する。 「!!」  アスナは慌てて跳び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。 「お、おはよ、キリト君。……いまの……聞いてた……?」 「おはよう。いまの……って、何?」  上体を起こし、欠伸を噛み殺しながら聞き返すキリトに向かって、アスナは両手をぶんぶんと振った。 「う、ううん、なんでもないの!」  てへへ、と笑ってから、ふと考える。不意を突かれたので動転して誤魔化してしまったが、別に何も恥ずかしいことは口にしていない。そこで、キリトのほうに体を寄せながら、言った。 「やっぱなんでもなくない」 「は……? 朝から何を……」  ぽかんとするキリトの首に、えいっ、と飛びついて、耳もとで囁く。 「だいすき、って言ったの」 「なっ……」  今度はキリトが赤くなる番だった。その頬に向かって、アスナはゆっくりと唇を近づけた。  目玉焼きと黒パン、サラダにコーヒー(に似た飲み物)の朝食を終え、二秒でテーブルを片付けると、アスナは両手をぱちんと打ち合わせた。 「さて! 今日はどこに遊びにいこっか」 「おまえなあ」  キリトが苦笑する。 「身も蓋もない言い方するなよ」 「だって毎日楽しいんだもん」  アスナにとっては偽らざる本音だ。  振り返るのも苦痛を伴う記憶だが、SAOの囚人となってからキリトに出会うまでの一年半、アスナの心は硬く凍りついていた。  寝る間も惜しんでスキル・レベルを鍛え上げ、攻略ギルド血盟騎士団のサブリーダーとして抜擢されてからは時としてメンバーが音をあげるほどのハイペースで迷宮に潜りつづけた。心にあるのはただゲームクリア、そして脱出だけで、それに資する活動以外のすべてを無駄なものと思っていた。  それを考えるとアスナは、何故もっと早くキリトと巡り合うことができなかったのかと悔やまずにはいられない。彼と出会ってからの日々は、現実世界での生活以上に色彩と驚きに溢れたものだった。彼と共になら、ここでの時間も得がたい経験と思えた。  だからアスナには、今ようやく手に入れた二人だけの時間、その一秒一秒が貴重な宝石のように思えるのだ。もっともっと、二人で色々な場所に行き、色々なことを話したい。  アスナは、両手を腰にあてて唇を尖らせると言った。 「じゃあキリト君は遊びにいきたくないの?」  するとキリトはにやりと笑い、左手を振ってマップを呼び出した。可視モードとしアスナに示す。ここ二十二層の森と湖の連なりが表示されている。 「ここなんだけどな」  指し示したのは、二人の家から少し離れた森の一角だった。  二十二層は低層フロアゆえに面積がかなり広い。直径で言えば八キロメートル強ほどもある。その中央には巨大な湖があり、南岸に主街区であるコラルの村。北岸に迷宮区。それ以外の場所はすべて針葉樹の美しい森となっている。アスナとキリトの小さな家はフロアのほぼ南端、外周部間近の場所にあり、今キリトが示しているのは家から北東へ二キロメートルほど進んだ場所である。 「昨日、村で聞いたウワサなんだけどな……。この辺の、森が深くなってるとこ……。出るんだって」 「は?」  聞き返すアスナにむかって、キリトは意味深な笑いを浮かべる。 「だから、出るんだって」 「何が?」 「——幽霊」  アスナはしばし絶句してから、おそるおそる聞き返した。 「……それって、アストラル型のモンスターってこと? レイスとかシャドウみたいな?」 「ちゃうちゃう、SAOのモンスターじゃないよ。ホンモノさ。プレイヤー……人間の、幽霊。女の子だって」 「ひゃ……」  アスナは思わず顔を引きつらせてしまう。その手の話は、人並み以上に苦手な自信がある。ホラー系フロアとして名高い六十五、六十六層あたりの古城迷宮は、あれこれ理由をつけて攻略をサボってしまったほどだ。 「だ、だって、ここはゲームのデジタル世界だよ。そんな——幽霊なんて、出るわけないじゃない」  無理やり笑顔を作りながら、ややムキになって抗弁する。 「それはどうかなー?」  だがお化けがアスナの弱点と知っているキリトは、いかにも楽しそうに追い打ちをかけてくる。 「例えばさぁ……。恨みを残して死んだプレイヤーの霊が、電源入りっぱなしのナーヴギアに取り憑いて……夜な夜なフィールドを彷徨ってるとか……」 「やめ————っ!!」 「わはは、悪かった、今のは不謹慎な冗談だったな。まあ俺も本当に幽霊が出るとは思っちゃいないけど、どうせ行くなら何か起きそうなところがいいじゃないか」 「うう……」  唇を尖らせながら、アスナは窓の外に目を向けた。  冬も間近なこの季節にしてはいい天気だ。ぽかぽかと暖かそうな陽光が庭の芝生に降り注いでいる。幽霊が出るには最も適さない時間、に思える。  ちなみに、アインクラッドではその構造上、早朝と夕方を除いて太陽を直接見ることはできない。しかし日中は十分以上の面光源ライティングによってフィールドは明るく照らされている。  アスナはキリトに向き直り、つんとあごを反らせながら言った。 「いいわよ、行きましょう。幽霊なんて居ないってことを証明しに」 「よし決まった。——今日会えなかったら、今度は夜中に行こうな」 「絶対いやよ!! ……そんな意地悪言う人にはお弁当作ってあげない」 「げげ、ナシナシ、今の無し」  キリトに最後のひと睨みを浴びせてから、アスナはにこりと笑った。 「さ、準備を済ませちゃおう。わたしはお魚焼くから、キリト君はパンを切ってね」  手早くフィッシュ・バーガーの弁当をランチボックスに詰め、二人が家を出たときは午前九時となっていた。  迷宮攻略に追われていた日々には特に意識しなかったが、こうしてシンプルな生活に入ってみるとアスナは改めて気づくことがある。それはSAO内では一日が実に長い、ということだ。理由は簡単で、現実世界での生活に否応無く付随する煩雑なあれこれ、その殆どをすっぱりと省略できるからだ。  例えば、こうして二人で出かけようとすると、現実世界ではその準備にかかる時間はとてつもないものとなるだろう。弁当作りは言わずもがな、台所を片付け、ゴミを出し、髪を洗い、乾かし整え、服をあれこれと迷いながら着たり脱いだり、さらに鏡の前で簡単な化粧に数十分。家を出て、駅まで歩き、電車に乗って待ち合わせ場所へ——。考えただけで気が遠くなりそうだ。  しかし今や弁当は数分で完成、ゴミは一つとして発生せず、服はウインドウでの操作のみで選択でき(しかも収納場所と小遣いを気にせず買い放題)、化粧もする必要などまるでない。言わば生活における『楽しさ』を得るために必要不可欠な『過程』をばっさり切り捨てることができるのだ。  アスナは以前、そのことが今の幸福な結婚生活に悪影響を与える可能性について考えたことがある。簡単に言えば、払うべき犠牲と努力(遅刻しそうになって駅まで走るとか)を払わずに、毎日こんなに楽しく暮らしているのは気がとがめる——ということだが、最終的には悪いことなどなにもない、という結論に至った。一日、二十四時間の中で、キリトと語り、触れ合い、愛を確かめる時間が増えることに何の弊害があるだろう。  そのことをどう思うか尋ねてみたところ、キリトの答えはこうだった。  ひょっとしたら、俺たちは未来の生活を生きているのかもしれないよ、と彼は言った。あるいは遠い未来には、人間は現実空間を捨て、体の管理は機械に任せ、仮想世界で育ち、出会い、働き、老いていくのかもしれない。そこには、現実の生活から必然的に発生するトラブル——転んで怪我をする、物を失くす、そういったことが存在せず、その分、人間はちょっとだけ笑顔でいられる時間が増えているかもしれない、と。  ここにくる以前のアスナなら、その話を聞いても嫌悪を覚えるだけだったろう。だが今は、そういう方向もあるいはありなのかな、と思う。要は——一番大切なのは自分のこころが何を感じるか、それだけなのだ。  庭の芝生に出たところで、アスナはキリトを振り返ると、言った。 「ね、肩車して」 「か、かたぐるまぁ!?」  素っ頓狂な声でキリトが聞き返す。 「だって、いつも同じ高さから見てたんじゃつまんないよ。キリト君の筋力パラメータなら余裕でしょ?」 「そ、そりゃそうかもしれないけどなぁ……。おまえ、いい歳こいて……」 「歳は関係ないもん! いいじゃない、誰が見てるわけでなし」 「ま、まあいいけどなぁ……」  キリトは呆れたように首を振りながらしゃがみこみ、背中をアスナに向けた。スカートをたくしあげ、その肩をまたぐように両足をかける。 「いいよー」  キリトが重みなどないかのような、身軽な動作で立ち上がると、それにつれて視点が一気に上昇した。 「わあ! ほら、ここからもう湖が見えるよ!」 「俺は見えないよ!!」 「じゃあ、あとでわたしもやってあげるから」 「……」  脱力したようにうなだれるキリトの頭に手をかけ、アスナは言った。 「さ、出発進行! 進路北北東!」  たぶん、これがこの世界で生きる、ということなのだ。捨て去ったのは煩雑な作業だけではない、あの世界で自分をしばっていた常識そのものだ。仮想世界でこころを飛翔させれば、日々は次々と新しい顔を見せてくれる。  すたすたと歩き出したキリトの肩の上で屈託無く笑いながら、アスナは痛いほどの、キリトへの——そして二人で暮らす日々への愛おしさを感じていた。自分は今、十七年の人生の中でいちばん『生きて』いる、そう思った。  小道を歩き出して(実際に歩いているのはキリトだけだが)十数分後、二十二層に点在する湖のひとつに差し掛かった。うららかな陽気に誘われてか、朝から数人の釣り師プレイヤーが湖水に糸を垂らしている。小道は湖をかこむ丘の上を通り、左手に見える湖畔まではやや距離があるが、近づくうちに二人に気づいたプレイヤー達がこちらに手をふってきた。どうやら皆笑顔で、中には腹を抱えて笑っている者もいる。 「……誰も見てなくないじゃん!!」 「あはは、人いたねー。ほら、キリト君も手を振りなよ」 「ぜったい嫌だ」  文句を言いながらも、キリトはアスナを下ろそうとはしなかった。内心では彼もおもしろがっているのがアスナにはわかる。  やがて道は丘を右に下り、深い森の中へと続く。モミの木に似た巨大な針葉樹がそびえる間を縫って、ゆっくりと歩く。木の葉擦れの音、小川のせせらぎ、鳥のさえずりが森の光景に美しい伴奏を添えている。  アスナは、いつもより近くに見える木々の梢に視線を向けた。 「大きい木だねえー。ねえ、この木、登れるのかなあ?」 「う〜ん……」  アスナの問いに、キリトはしばし考え込む。 「システム的には不可能じゃない気がするけどなぁ……。試してみる?」 「ううん、それはまた今度の遊びテーマにしよう。——登ると言えばさあ」  アスナはキリトの肩に乗ったまま体を伸ばし、木々の隙間から遠くに見えるアインクラッド外周部に目をやる。 「外周にいくつか、支柱みたいになって上層まで続いてるとこがあるじゃない。あれ……登ったらどうなるんだろうね」 「あ、俺やったことあるよ」 「ええー!?」  体を傾け、キリトの顔を覗き込む。 「なんで誘ってくれなかったのよう」 「まだそんなに仲良くなかったころだってば」 「なによ、キリト君が避けてたんじゃない」 「……さ、避けてたかな?」 「そうよー。わたしがいっくら誘っても、お茶にも付き合ってくれなかったよ」 「そ、それは……。い、いやそんな事よりだな」  会話が妙な方向に行き始めたのを修正するようにキリトが言葉を続ける。 「結論から言えばダメだったよ。岩がでこぼこしてたから登るのは案外簡単だったんだけど、八十メートルくらい登ったとこで急にシステムのエラーメッセージが出て、ここは侵入不可能領域です! って怒られてさぁ」 「あっはっは、ズルはだめだねーやっぱ」 「笑いごとじゃないぞ。それにびっくりして手を滑らせて、見事に落っこちてな……」 「え、ええ!? さすがに死ぬでしょうソレ」 「うん。死ぬと思った。緊急転移があと一秒遅れてたら戦死者リストに仲間入りさ。死因が墜落死ってのはかなりレアだろうなぁ」 「もう、危ないなぁ。二度としないでよね」 「そっちが言い出した話だろ!」  他愛ない会話を交わしながら歩くうち、森はどんどん深くなっていった。心なしか、やかましかった鳥の声もまばらになり、梢を縫って届く陽光もひかえめになってきている。  アスナは改めて周囲を見回しながら、キリトに尋ねた。 「ね、その……ウワサの場所って、どのへんなの?」 「ええと……」  キリトが手を振り、マップで現在位置を確認する。 「あ、そろそろだよ。座標的にはあと何分かで着く」 「ふうん……。ね、具体的には、どんな話だったの?」  聞きたくないが、聞かないのも不安で、アスナは問い掛けた。 「ええと、一週間くらい前、丸太を集めてた工芸スキルプレイヤーがこのへんに入り込んだそうだ。このへんの木材はアイテム的にも質がいいらしくて、夢中で集めているうちに暗くなっちゃって……。あわてて帰ろうと歩き始めたところで、ちょっと離れた木の影に——ちらりと、白い影が」 「…………」  アスナ的にはそこでもう限界だったが、キリトの話は容赦なく続く。 「モンスターかと思って慌てたけど、どうやらそうじゃない。人間、小さい女の子に見えたって言うんだな。長い、黒い髪に、白い服。ゆっくり、木立の向こうを歩いていく。モンスターでなきゃプレイヤーだ、そう思って視線を合わせたら」 「…………」 「——カーソルが、出ない」 「ひっ……」  おもわず喉の奥で小さな声を洩らしてしまう。 「そんな訳はない。そう思いながら、よしゃあいいのに近づいた。そのうえ声をかけた。そしたら女の子がぴたりと立ち止まって……こっちをゆっくり振り向こうと……」 「も、も、もう、や、やめ……」 「そこでその男は気がついた。女の子の、白い服が月明りに照らされて、その向こう側の木が——透けて見える」 「——————!!」  必死に悲鳴をこらえながら、アスナはぎゅっとキリトの髪を掴んだ。 「女の子が完全に振り向いたら終わりだ、そう思って男はそりゃあ走ったそうだ。ようやく遠くに村の明かりが見えてきて、ここまでくれば大丈夫、と立ち止まって……ひょいっと後ろを振り返ったら……」 「——————!?!?」 「誰もいなかったとさ。めでたしめでたし」 「————き、き、キリトくんの、ばか————っ!!」  アスナはぽかぽかとキリトの頭を叩いた。 「わあ、ごめんごめん! 勘弁!」 「お、降ろしてよう」  地面に膝をついたキリトの背から滑り降りると、足に力が入らず、すとんとしゃがみこんでしまう。 「わ、わたしそういう話、ほんとにダメなの!! ……ぎゅーってして」  キリトに向かって手を差し伸べると、すまなそうな顔でキリトは跪き、アスナの体を両腕で包み込んだ。ぎゅっと力が込められると、ようやく少し安心する。 「——しかしなあ」  耳もとで、まだすこしおもしろがるようなキリトの声。 「あれだけモンスターに囲まれても大丈夫な奴が、お化けはだめなの?」 「アストラル系は苦手だってば! ……それに、モンスターは剣で斬れるけど、お化けは……」  語尾を口の中で紛らし、キリトの胸に顔を埋める。 「わかったわかった、ごめんな。ほら、大丈夫だから。俺がついてるよ」  幼子をあやすような声とともに、キリトが髪を撫でてくれる。しばらくそうしているとどうにか気持ちが落ち着き、アスナは顔を上げた。そのまま体を伸ばしてキリトの頬に自分の頬をすり寄せ、仕草でキスをせがもうとした——その時だった。  うっすら目を開けた、アスナの視界に、キリトの肩口から見える森の光景が入り込んできた。彼の背後には、灰色の巨木が幾重にも建ち並び、その奥は昼なお深い薄闇の中に溶け込んでいる。その木のうちの一本、二人からかなり離れた針葉樹の幹の傍らに、白いものがちらりと見えた。  とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、アスナはその何かにむかっておそるおそる視線を凝らした。キリトほどではないが、アスナの索敵スキルもかなりの錬度に達している。自動的にスキルによる補正が適用され、視線を集中している部分の解像度がぐんと上昇する。  白い何かは、ゆっくりと風にはためいているように見えた。植物ではない。岩でもない。布だ。更に言えば、シンプルなラインのワンピースだ。その裾から覗いている二本の細い——脚。  ゆっくりと視線を上げていく。ふくらんだスリーブから伸びた華奢な右手は木の幹に添えられ、左手は体の脇に下ろされている。広めの襟ぐりは深紅のリボンで飾られ、雪のように白い胸元と、そこから続く細い首——漆黒のロングヘアが風になびき、卵型の小さな顔、引き結ばれた色の薄い唇——そしてとうとう、無限の闇を湛えたような、表情の無い二つの黒い瞳に、アスナの視線が吸い込まれた。  少女が立っている。キリトの話にあったのと寸分違わぬ白いワンピースをまとった幼い少女が無言で佇み、二人をじっと見ている。  ふらりと意識が薄れかかるのを感じながら、アスナはどうにか口を開いた。ほとんど空気だけのかすれ声をどうにかしぼり出す。 「き、き、キリトくん、あそこ——」  キリトがさっと振り向いた。直後、その体もびくりと硬直する。 「う、うそだろおい……」  アスナはもう喋れない。視線を少女から逸らせぬまま、数秒が経過した。少女は動かない。二人から数十メートル離れた場所に立ち、じっとこちらを見つめている。もし、すこしでもこっちに近づいてきたら、わたし気絶しちゃうだろうなあ、そう思ってアスナが覚悟を決めたその時。  ふらり——と少女の体が揺れた。動力の切れた人形のような、妙に非生物めいた動きでその体が地面に崩れ落ちた。どさり、というかすかな音が耳に届いてくる。 「あれは——」  不意にキリトが立ち上がった。 「幽霊なんかじゃないぞ!!」  一言叫んで走り出す。 「ちょ、ちょっとキリトくん!」  置き去りにされたアスナはあわてて呼び止めたが、キリトは目もくれず倒れた少女へと駆け寄っていく。 「もう!!」  やむなくアスナも立ち上がり、その後を追った。まだ心臓がどきどき言っているが、気絶して倒れる幽霊なんて聞いたこともない。やはりあれはプレイヤーとしか思えない。  遅れること数秒、針葉樹の下に到達すると、すでに少女はキリトに抱え起こされていた。まだ意識は戻っていない。長い睫毛に縁どられた目蓋は閉じられ、両腕は力なく体の脇に投げ出されている。念のためワンピースに包まれた体をまじまじと眺めるが、透けている様子はどこにもない。 「だ、大丈夫そうなの?」 「う〜〜〜ん」  キリトは少女の顔を覗き込みながら言った。 「と、言ってもなぁ……。この世界じゃ息とかしないし、心臓も動かないし……」  SAO内では、人間の生理的活動のほとんどは再現が省略されている。自発的に息を吸い込むことはできるし、空気が動く感触も味わえるが、無意識呼吸は行われない。心臓の鼓動も、緊張したり興奮してドキドキするという感覚はあるものの他人のそれを感じ取ることはできない。 「でもまあ、消滅してない……ってことは生きてる、ってことだよな。しかしこれは……相当妙だぞ……」  言葉を切り、キリトは首をかしげた。 「妙って?」 「幽霊じゃないよな、こうして触れるし。でも、カーソルは……出ない……」 「あ……」  アスナはあらためて少女の体に視線を集中させた。だが、通常アインクラッドに存在する動的オブジェクトならプレイヤーにせよモンスターにせよ必ず表示されるはずのカラー・カーソルが出現しない。いまだかつてこんな現象に遭遇したことはなかった。 「何かの、バグ、かな?」 「そうだろうな。普通のネットゲームならGMを呼ぶってケースだろうけど、SAOにGMは居ないしな……。それに、カーソルだけじゃない。プレイヤーにしちゃちょっと若すぎるよ」  確かにそうだった。腰を落としたキリトの両腕に抱きかかえられたその体はあまりにも華奢で、小さい。年齢で言えば十歳にも満たないだろう。ナーヴギアには建前的ながら装着に年齢制限があり、確か十三歳以下の子供の使用は禁じられていたはずだ。  アスナはそっと手を伸ばし、少女の額に触れた。ひんやりとした、滑らかな感触が伝わってくる。 「こんな……小さな子が……二年も、この中に……」  その苦しみは想像もつかない。アスナは唇を噛むと、立ち上がり、言った。 「とりあえず、放ってはおけないよ。目を覚ませばいろいろわかると思う。うちまで連れて帰ろう」 「うん、そうだな」  キリトも少女を横抱きにしたまま立ち上がった。アスナはふと周囲を見回したが、深く暗い森がどこまでも続くばかりで、少女がここに居た理由のようなものは何も見つからなかった。  道を戻り、森から出て二人の家にたどり着いても少女の意識は戻らなかった。寝室のアスナのベッドに少女を横たえ、上掛けをかけておいて、二人はその向かいのキリトのベッドに並んで腰を下ろした。  数分間沈黙が続いたあと、キリトがぽつりと口を開いた。 「可能性としては、この子はやっぱりプレイヤーで、あそこで道に迷っていた——というのが一番有り得ると思う。クリスタルを持っていない、あるいは緊急脱出の方法を知らないとしたら、ログインしてから今までずっとフィールドに出ないで、始まりの街にいたと思うんだ。なんでこんな所まで来たのかは判らないけど、始まりの街にならこの子のことを知ってるプレイヤーが……ひょっとしたら親とか、保護者がいるんじゃないかな」 「うん。わたしもそう思う。こんな小さい子が一人でログインするなんて考えられないもん。親とか、兄弟とかがきっと——。……無事だと、いいけど」  最後の言葉は口の中に飲み込むようにして、アスナはキリトに顔を向けた。 「ね、意識、戻るよね」 「ああ。まだ消えてないってことは、ナーヴギアとの間に信号のやり取りはあるんだ。睡眠状態に近いと思う。だから、きっとそのうち、目をさます……はずだよ」  しっかり頷きながらも、キリトの言葉には願望の色があった。  アスナは立ち上がると、少女の眠るベッドの前にひざまずき、右手を伸ばした。そっと少女の頭を撫でる。  それにしても美しい少女だった。子供というよりは、妖精のような気配を漂わせている。肌の色はアラバスターのようなきめの細かい純白。長い黒髪は艶やかに光り、どこか異国風のくっきりとした顔立ちは、目を開けて笑ったらさぞ魅力的だろうと思わせる。  キリトもアスナの横に歩み寄り、腰を落とした。おそるおそる右手を伸ばし、少女の髪に触れる。 「十歳は行ってないよな……。八歳くらいかな」 「それくらいだね……。わたしが見た中ではダントツで最年少プレイヤーだよ」 「そうだな。前にビーストテイマーの女の子と知り合ったけど、それでも十三歳くらいだったからなぁ」  はじめて聞く話に、アスナは思わずキリトの顔を見やってしまう。 「ふうん、そんなかわいいお友達がいたんだ」 「ああ、たまにメールのやり取りを……い、いや、それだけで、何もないぞ!」 「どうだか。キリト君鈍いから」  つんと顔をそらす。  風向きがおかしくなりつつあるのを察したように、キリトは立ち上がると、言った。 「お、もうこんな時間だな。お昼にしようぜ」 「その話、あとできちんと聞かせてもらいますからね」  ひと睨みしてからアスナも立ち上がり、この場は放免してあげることにしてにこりと笑う。 「さ、お弁当たべよ。お茶いれるね」  晩秋の午後がゆっくりと過ぎ去り、外周から差し込む赤い陽光が消え去る時間になっても、少女は眠りつづけている。  アスナがカーテンを引き、壁のランプを灯していると、村まで出かけていたキリトが戻ってきた。無言で首を振り、少女に関する手がかりが無かったことを告げる。  二人とも賑やかに夕食を楽しむ気になれず、簡単なスープとパンだけをそそくさと食べると、キリトが買ってきた何種類かの新聞を確認する作業に取りかかった。  新聞、と言っても紙を束ねた現実世界のそれとは違い、雑誌程度のサイズの羊皮紙一枚でできている。その表面はシステムウインドウ状のスクリーンになっており、ホームページを操作する要領で収められた情報を切り替えて表示させることができる。  内容も、プレイヤーが運営している情報系ホームページそのもので、ニュースから簡単なマニュアル、FAQ、アイテムリストなど多岐にわたる。その中には探し物・尋ね人コーナーもあり、二人が目をつけたのはそこだった。少女を探している人がいるのではないかと思ったのだ。しかし——。 「……ないな……」 「ないね……」  数十分かけてすべての新聞を調べ終わり、二人は顔を見合わせて肩を落とした。あとはいよいよ少女が目を覚まし、話を聞けるまで待つしかない。  いつもの夜なら、二人とも宵っ張りということもあって他愛ない話をしたり簡単なゲームをしたり、夜の散歩としゃれ込んだり、あるいは心ゆくまで愛を確かめ合ったりとすることは山ほどあるのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。 「今日はもう寝よっか」 「ん。そうだな」  アスナの言葉にキリトも頷いた。  居間の明かりを消し、寝室に入る。少女がベッドを一つ使っているので、もう片方に二人で寝ることにして(実際は毎晩そうなのだが)、そそくさと寝巻きに着替えた。  寝室のランプも火を落として、二人はベッドに横になった。  キリトにはいろいろ妙な特技があるのだが、寝つきの良さもそれに含まれるだろう。アスナが、少し話をしようと横を向いた時にはもう深い眠りに落ちているようだった。 「もう」  小声で文句を言い、反対側、少女の眠るベッドのほうに向き直る。薄青い闇の中、黒髪の少女は相変わらずこんこんと眠りつづけていた。今まで意識的に彼女の過去について考えないようにしていたのだが、こうして見つめているとどうしても思考がそちらのほうに向かってしまう。  親なりの保護者といっしょに今まで過ごしていたのなら、まだいい。だが、仮に——ひとりでこの世界にやってきて、二年間を恐怖と孤独のうちに送っていたのなら——たかだか八、九歳の子供に、それは耐えがたい日々だったろう。自分ならとても正常な精神状態を保てたとは思えない。  ひょっとして——。アスナは最悪の事態を想像する。もし、あの森の中で彷徨い、昏倒してしまったのが、少女のこころの状態に起因するものだとしたら。アインクラッドにはもちろん精神科医などいないし、助けを求めるべきシステム管理者もいない。クリアには最低あと半年はかかると予想され、それもアスナやキリトの努力だけではどうにもならない。今二人が前線から離れているのも、ひとつには二人を含む一部のトッププレイヤーのレベルが突出しすぎ、攻略組の数が覚束なくなってきているからなのだ。  少女の苦しみがどれほど深いものであっても、自分がそれを救ってあげることなどできない——。そう思うと、アスナは不意に耐えがたい胸の痛みに襲われた。無意識のうちにベッドから離れ、眠る少女のそばまで移動する。  しばらく髪を撫でていたあと、アスナはそっと上掛けをめくり、少女の隣りに横になった。両腕で、小さな体をぎゅっと抱きしめる。少女は身動き一つしなかったが、どことなくその表情が和らいだような気がして、アスナは小さく囁いた。 「おやすみ。明日は、目が覚めるといいね……」     二日目  朝の白い光の中でまどろむアスナの意識に、ゆっくりと穏やかな旋律が流れ込んでくる。オーボエによって奏でられる起床アラーム、曲は「Country Road」だ。アスナは覚醒直前の浮遊するような感覚の中、懐かしいメロディーに身をゆだねる。やがてストリングスの軽快な響きと、クラリネットの主旋律が重なり、そこにかすかな声でハミングが——。 (——ハミング?)  歌っているのは自分ではない。アスナはぱちりと目を開けた。  腕の中で、黒髪の少女が目蓋を閉じたまま——アスナの起床アラームに合わせてメロディーを口ずさんでいた。  一拍たりともずれていない。しかし、そんなことはあり得ない。アスナはアラームを自分にのみ聴こえるよう設定しているので、彼女の脳内のメロディーに合わせて歌うなどということは誰にも不可能だ。  だが、アスナはその疑問をとりあえず先送りすることにした。それよりも——。 「き、キリト君、キリトくんってば!!」  体を動かさないまま、背後のベッドに眠るキリトに呼びかける。やがて、むにゃむにゃという声と共にキリトが起き上がる気配がする。 「……おはよう。どうかしたかー?」 「早く、こっちに来て!」  床板を数歩あるく音。ひょいとアスナの体越しにベッドを覗き込み、すぐにキリトも息を飲んだ。 「歌ってる……!?」 「う、うん……」  アスナは腕の中の少女の体を軽く揺すりながら呼びかけた。 「ね、起きて……。目を、覚まして」  少女の唇の動きが止まった。やがて、長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。  濡れたような黒い瞳が、至近距離からまっすぐにアスナの目を射た。ぱちぱちと数度まばたきして、ふたたび色の薄い唇がゆっくりと動く。 「あ……う……」  少女の声は、極薄の銀器を鳴らすような、はかなく美しい響きだった。アスナは少女を抱いたままゆっくりと体を起こした。 「……よかった、目が覚めたのね。自分がどうなったか、わかる?」  言葉をかけると、少女は数秒のあいだ口をつぐみ、やがてゆっくりと首を振った。 「そう……。お名前は? 言える?」 「……な……まえ……。あた……しの……なまえ……」  少女が首をかしげると、艶やかな黒髪がふわりと動き、頬にかかる。 「ゆ……い。ゆい。それが……なまえ……」 「ユイちゃんか。いい名前だね。わたしはアスナ。この人はキリトよ」  アスナがキリトのほうを示すと、ユイと名乗る少女の視線も動いた。アスナと、中腰で身を乗り出すキリトを交互に見て、口を開ける。 「あ……うな。き……と」  たどたどしく唇が動き、切れ切れの音が発せられる。アスナは、昨夜感じた危惧がふたたびよみがえるのを感じていた。少女の外見は少なくとも八歳程度、ログインから経過した時間を考えれば現在の実年齢は十歳ほどには達していると思われる。しかし少女のおぼつかない言葉の様子は、まるで物心ついたばかりの幼児のようだ。 「ね、ユイちゃん。どうして二十二層にいたの? どこかに、お父さんかお母さんはいないの?」  ユイは目を伏せ、黙り込んだ。しばらく沈黙が続いたあと、ゆっくりと首を振る。 「わかん……ない……。なん……にも、わかんない……」  抱き上げて食卓の椅子に座らせ、暖めて甘くしたミルクを与えると、少女はカップを両手で抱えるようにしてゆっくりと飲み始めた。その様子を目の端で見ながら、すこし離れた場所でアスナはキリトと意見を交換することにした。 「ね、キリト君。どう思う……?」  キリトは厳しい顔で唇を噛んでいたが、やがて俯いて言った。 「記憶は……ないようだな……。でも、それより……あの様子だと、精神に……ダメージが……」 「そう……思うよね、やっぱ……」 「くそっ」  キリトの顔が、泣き出す寸前のように歪む。 「この世界で……色々、酷いことも見てきたけど……こんなの……最悪だ。残酷すぎるよ……」  その瞳が濡れているのを見ると、アスナの胸にも突き上げてくるものがあった。両腕でぎゅっとキリトの体を包み込み、言う。 「泣かないで、キリトくん。……わたしたちに、出来ることだって、きっと……あるよ」 「……そうか。そうだな……」  キリトは顔を上げると、小さく笑ってアスナの両肩に手を置き、食卓へと歩き出した。アスナもその後に続く。  がたがたと椅子を移動させてユイの横に座ると、キリトは明るい声で話しかけた。 「やあ、ユイちゃん。……ユイって、呼んでいい?」  カップから顔を上げたユイが、こくりと頷く。 「そうか。じゃあ、ユイも俺のこと、キリトって呼んでいいよ」 「き……と」 「キリト、だよ。き、り、と」 「……」  ユイは難しい顔でしばらく黙りこむ。 「……きいと」  キリトはにこりと笑うと、ユイの頭にぽんと手を置いた。 「ちょっと難しかったかな。何でも、言いやすい呼び方でいいよ」  ふたたびユイは長い時間考え込んでいた。アスナがテーブルの上からカップを取り上げ、ミルクを満たして目の前に置いても身じろぎもしない。  やがてユイはゆっくり顔を上げると、キリトの顔を見て、おそるおそる、というふうに口を開いた。 「……パパ」  次いでアスナを見上げて、言う。 「あうなは……ママ」  アスナの体が抑えようもなく震えた。こみ上げてくるものを必死に押さえつけ、ユイに向かって笑いかける。 「そうだよ……ママだよ、ユイちゃん」  それを聞くと、ユイははじめて笑顔を浮かべた。切りそろえた前髪の下で、表情の乏しかった黒い瞳がきらりと瞬き、一瞬、人形のようなその整った顔に生気が戻ったように見えた。 「——ママ!」  こちらに向かって差し出された手を見て、アスナは両手で口許を覆った。 「うっ……」  もう限界だった。こらえきれず嗚咽がこぼれる。椅子からユイの小さな体を持ち上げ、しっかりと胸に抱きながら、アスナは色々な感情が混じりあった涙が溢れ、頬を伝うのを感じていた。  ホットミルクを飲み、小さな丸パンを一つ食べると、ユイは再び眠気を覚えたらしく椅子の上で頭を揺らしはじめた。  テーブルの向かい側でその様子を見ていたアスナは、ぐいと両目をひと拭きすると隣の椅子に腰掛けるキリトに視線を向けた。 「わたし——わたし……」  口を開くが、言いたいことをなかなか形にすることができない。 「ごめんね、わたし、どうしていいのかわかんないよ……」  キリトはいたわるような眼差しでしばらくアスナを見つめていたが、やがてぽつりと言った。 「……この子が記憶を取り戻すまで、ずっとここで面倒みたいと思ってるんだろ? 気持ちは……わかるよ。俺もそうしたい。でもな……ジレンマだよな……。そうしたら当分攻略には戻れないし、そのぶんこの子が解放されるのも遅れる……」 「うん……それは、そうだね……」  自分はともかく、とアスナは思う。誇張ではなくキリトの攻略プレイヤーとしての存在感はずば抜けたものがあり、迷宮区の未踏破エリアのマップ提供量はソロプレイヤーでありながらあまたの有力ギルドを上回っていた。数週間のつもりの新婚生活だが、こうして自分ひとりがキリトを独占していることにある種の罪悪感を抱いてしまうほどだ。 「とりあえず、出来ることをしよう」  キリトは寝息を立て始めたユイを見やりながら言葉を続けた。 「まず、始まりの街にこの子の親とか兄弟とかがいないか探しにいくんだ。これだけ目立つプレイヤーなら、少なくとも知ってる人間がいると思うし……」 「……」  もっともな意見だった。しかしアスナは、自分の中にこの少女と別れたくないと思っている部分があることに気付いていた。夢にまでみたキリトと二人だけの生活だったが、なぜかそれが三人になることに抵抗はない。まるでユイが自分とキリトの子供のように思えるからだろうか——とそこまで漠然と思考してから不意に我に返り、アスナは耳まで赤くなった。 「……? どうしたの?」 「な、なんでもないよ!!」  いぶかしむキリトに向かってアスナはぶんぶんと首を振って、言った。 「そ、そうだね。ユイちゃんが起きたら、始まりの街に行ってみよう。ついでに新聞の尋ね人コーナーにも書いてもらおうよ」  キリトの顔を見ることができず、早口で言いながらアスナは手早くテーブルの上を片付けた。椅子で眠るユイに目をやると、もう完全に熟睡しているようだったが、気のせいかその寝顔は昨日とは違いどことなく安らかな笑みを浮べているように思えた。  ベッドに移動させたユイは午前中ずっと眠りつづけ、また昏睡してしまったのではないかとアスナはやや心配したのだが、幸い昼食の準備が終わる頃目を覚ました。  ユイのために、普段はほとんど作らない甘いフルーツパイを焼いたのだが、テーブルについたユイはパイよりもキリトが旨そうにかぶりつくマスタードたっぷりのサンドイッチに興味を示し二人を慌てさせた。 「ユイ、これはな、すごく辛いぞ」 「う〜……。パパと、おなじのがいい」 「そうか。そこまでの覚悟なら俺は止めん。何事も経験だ」  キリトがサンドイッチを一つ差し出すと、ユイはためらわず小さな口を精一杯あけてがぶりと噛み付いた。  二人が固唾をのんで見守るなか、難しい顔で口をもぐもぐさせていたユイは、ごくりと喉を動かすとにっこり笑った。 「おいしい」 「中々根性のある奴だ」  キリトも笑いながらユイの頭をぐりぐりと撫でる。 「晩飯は激辛フルコースに挑戦しような」 「もう、調子に乗らないの! そんなもの作らないからね!」  だが始まりの街でユイの保護者が見つかれば、ここに帰ってくるときはまた二人きりだ。そう思うとアスナの胸中には一抹の寂しさがよぎる。  結局残りのサンドイッチを全て平らげてしまい、満足そうにミルクティーを飲むユイに向かって、アスナは言った。 「ユイちゃん、午後はちょっとお出かけしようね」 「おでかけ?」  きょとんとした顔のユイに向かって、どう説明したものか迷っているとキリトが言った。 「ユイの友達を探しにいくんだ」 「ともだち……って、なに?」  その答えに、思わず二人は顔を見合わせてしまう。ユイの「症状」には不可解な点が多い。単純に精神的年齢が後退していると言うよりは、知能があちこち欠損しているような印象がある。  その状態を改善させるためにも、本当の保護者を見つけたほうがいいんだ……。アスナは自分にそう言い聞かせ、ユイに向かって答えた。 「お友達っていうのは、ユイちゃんのことを助けてくれる人のことだよ。さ、準備しよう」  ユイはまだいぶかしそうな顔だったが、こくりと頷いて立ち上がった。  少女のまとう白いワンピースは、短いパフスリーブで生地も薄く、初冬のこの季節に外出するにはいかにも寒そうだ。もっとも寒いと言ってもそれで風邪を引いたりダメージを受けたりということはないのだが——氷雪エリアで裸になったりすれば話は別だが——、不快な感覚であることに変わりはない。  アスナはアイテムリストをスクロールさせて次々と厚手の衣類を実体化させ、どうにか少女に合いそうなセーターを発見すると、そこではたと動きを止めた。  通常、衣類を装備するときはステータスウインドウから装備フィギュアを操作することになる。布や液体などの柔らかいオブジェクトの再現はSAOの苦手分野であり、衣類は独立したオブジェクトと言うよりは肉体の一部として扱われているからだ。  アスナの戸惑いを察したキリトがユイに尋ねた。 「ユイ、ウインドウ、開けるか?」  案の定少女は何のことかわからないように首を傾げる。 「じゃあ、左手の人差し指を振ってみるんだ。こんなふうに」  キリトが指を振ると、手の下に紫色の四角い窓が出現した。それを見たユイはおぼつかない手つきで動きを真似たが、ウインドウが開くことはなかった。 「……やっぱり、何かシステムがバグってるな。でも、ステータス開けないってのは致命的すぎるぞ……。何もできないじゃないか」  キリトが唇を噛んだ、その時。むきになって左手の指を振っていたユイが、今度は右手を振った。途端、手の下に紫に発光するウインドウが表示された。 「でた!」  嬉しそうににっこり笑うユイの頭上で、アスナはあっけにとられてキリトと顔を見合わせた。もう何がなんだかわからない。 「ユイちゃん、ちょっと見せてね」  アスナはかがみ込むと、少女のウインドウを覗き込んだ。だが、ステータスは通常本人にしか見ることができず、そこには無地の画面が広がっているだけだ。 「ごめんね、手を貸して」  アスナはユイの右手を取ると、その細い人差し指を移動させ、カンで可視モードボタンがあると思われるあたりをクリックさせた。  狙い違わず、短い効果音とともにウインドウの表面に見慣れた画面が浮き上がってきた。基本的に他人のステータスを盗み見るのは重大なマナー違反であるので、こういう状況ではあってもアスナは気がとがめて極力画面に目をやらずアイテム欄のみを素早く開こうとしたのだが——。 「な……なにこれ!?」  画面上部を視線が横切った瞬間、驚きの言葉が口をついて出た。  メニューウインドウのトップ画面は、基本的に三つのエリアに分けられている。最上部に名前の日本語/英語表示と細長いHPバー、EXPバーがあり、その下の左半分に装備フィギュア、右半分にコマンドボタン一覧という配置だ。アイコン等は無数のサンプルデザインから自由にカスタマイズすることができるが、基本配置は不可変である。のだが、ユイのウインドウの最上部には、『ユイ/Yui-MHCP001X』というネーム表示があるだけでHPバーもEXPバーも、レベル表示すらも存在しない。装備フィギュアはあるものの、コマンドボタンは通常と比べて大幅に少なく、わずかに『アイテム』と『オプション』のそれが存在するだけだ。  アスナの動きが止まったことをいぶかしむように近づいてきたキリトも、ウインドウを覗きこむなり息を飲んだ。ユイ本人はウインドウの異常など意に介せぬふうで、不思議そうな顔で二人を見上げている。 「これも……システムのバグなのかな……?」  アスナがつぶやくと、キリトは喉の奥でちいさく唸りながらいらえた。 「なんだか……バグというよりは、もともとこういうデザインになってるようにも見えるけどな……。くそ、今日くらいGMがいないのを歯がゆいと思ったことはないぜ」 「ふつうはSAOってバグどころかラグることもほとんどないから、GMなんて気にしたことなかったけどね……。これ以上考えてもしょうがない、よね……」  アスナは肩をすくめると、あらためてユイの指を動かし、アイテム欄を開かせた。その表面に、テーブルから取り上げたセーターをそっと置くと、一瞬の光を発してアイテムはウインドウに格納された。次いでセーターの名前をドラッグし、装備フィギュアへとドロップする。  直後、鈴の音のような効果音とともにユイの体が光の粒に包まれ、淡いピンクのセーターがオブジェクト化された。 「わあー」  ユイは顔を輝かせ、両手を広げて自分の体を見下ろした。アスナはさらに同系色のスカートと黒いタイツ、赤い靴を次々と少女に装備させ、最後に元々着ていたワンピースをアイテム欄に戻すとウインドウを消去した。  すっかり装いを改めたユイはうれしそうに、ふわふわしたセーターの生地に頬をこすりつけたりスカートの裾を引っ張ったりしている。 「さ、じゃあお出かけしようね」 「うん。パパ、だっこ」  屈託なく両手を伸ばすユイに、キリトは照れたように苦笑しながら少女の体を横抱きにかかえ上げた。そのままちらりとアスナに目を向け、言う。 「アスナ、一応、すぐ武装できるように準備しといてくれ。街からは出ないつもりだけど……あそこは『軍』のテリトリーだからな……」 「ん……。気を抜かないほうがいいね」  頷いて、手早く自分のアイテム欄を確認すると、アスナはキリトと連れ立ってドアへと歩き出した。少女の保護者が見つかればいい、というのは素直な気持ちだったが、ユイと別れる時のことを考えると不思議な動揺も感じてしまう。出会ってわずか一日で、ユイはアスナが長らく忘れていた、心の柔らかい部分をすっかり捉えてしまったかのようだった。 『始まりの街』に降り立ったのはほとんど一年ぶりのことだった。  アスナは複雑な感慨を覚えながら、転移ゲートを出たところで立ち止まり、広大な広場とその向こうに広がる街並みをぐるりと見渡した。  もちろんここはアインクラッド最大の都市であり、冒険に必要な機能はほかのどの街よりも充実している。物価も安く、宿屋の類も大量に存在し、効率だけを考えるならここをベースタウンにするのがもっとも適している。  だが、アスナの知り合いに関して言えば、ハイレベルのプレイヤーで未だに『始まりの街』に留まっている者はいない。『軍』の専横も理由のひとつだろうが、何よりこの巨大な時計塔広場に立って上空を見上げると、どうしてもあの時のことを思い出さざるを得ないからだ、とアスナは思う。  最初はほんの気まぐれだったのだ。  実業家の父親と学者の母親の間に生まれたアスナ——いや明日奈は、物心ついたころから両親の期待を強く感じながら育ってきた。両親はともに穏やかだが毅然とした人物で、明日奈にはいつも優しかったが、そうであればあるほど、彼らの期待を裏切った時その笑顔の下からどのような表情が顔を出すのかと考えることが恐怖となった。  それは兄も同じだったろう。兄と明日奈は、そろって両親の選んだ私立の小学校に入学し、何ひとつとして問題を起こさず、つねに上位の成績を保ち続けた。中学は有名な進学校にすすみ、歳の離れた兄が大学に入って家を出てしまってからは、ただただ両親の期待を裏切らないことだけを考えて生きてきた。複数の習い事をこなし、両親の認めた友達とのみ付き合い、しかしそんな生活の中で、明日奈はいつしか世界が小さく、硬く収縮していくのを感じていた。このまま既定された方向に——両親の決めた高校、両親の決めた大学に進み、両親の決めた相手と結婚してしまったら、自分はきっと自分よりも小さな、とてつもなく硬いカラに押し込められ、永遠にそこから出ることはかなわないだろう、という恐怖におびえていた。  だから——、父親の会社に就職し、家に戻ってきた兄が(残念ながら兄はそのカラにとらわれてしまったのだ、と思った)ナーヴギアとSAOをコネで手に入れ、珍しく目を輝かせながら明日奈に向かってゲーム世界のことを語ったとき、テレビゲームなど触ったこともなかった明日奈だがその不思議な新世界にはわずかな興味を覚えたのだった。  もちろん、兄が自室で使用していれば、ナーヴギアのことなどすぐに忘れて思い出すこともなかっただろう。だが間の悪いことに兄はSAO初日に海外へと出張することになってしまい、それゆえにほんの気まぐれで明日奈は兄に一日だけ貸してくれ、と頼んだのだった。普段見たことのない世界を見てみたい、ただそれだけの気持ちで——。  そして、全てが変わってしまった。  あの日、明日奈からアスナへと姿を変え、見知らぬ街、見知らぬ人々の間に降り立ったときの興奮は今でも覚えている。  だがその直後、頭上に降臨した半透明の神によってこの世界の真実の姿が脱出不可能のデスワールドであることを告げられたとき、最初にアスナが考えたのは、まだ手を付けていない数学の課題のことだった。  すぐに帰ってあれを片付けないと、翌日の授業で教師に叱責されてしまう。そんなことはアスナの人生においてはあってはならないことで……しかしもちろん、事態の深刻さはそんなものではなかった。  一週間、二週間と日々が無為に過ぎ去っても、SAOに救出の手は伸びなかった。始まりの街の宿屋の一室に閉じこもり、ベッドの上にうずくまって、アスナはとてつもないパニックを味わいつづけた。時として悲鳴を上げ、絶叫しながら壁を叩きさえした。今は中学三年の冬なのだ。すぐに受験が、そして新学期がやってきてしまう。そのレールから外れることは、アスナにとって人生の終焉そのものに等しかった。  アスナは毎日狂おしく頭を抱えながら、暗く深い確信を抱いていた。  両親はきっと、娘の身を案じるよりは、ゲーム機などのせいで受験を失敗しようとしている娘に激しく失望していることだろう。友人たちは悲嘆に暮れつつも同時にグループの脱落者を哀れみ、蔑んでいるだろう。  それらの黒い思念が臨界に達したとき、ようやくアスナはひとつの決意を固め、宿屋を出た。救出を待つのではない、自分からここを脱出するのだ。世界の救世主となるのだ。そうすることでしか、自分はもう周囲の人々の心を繋ぎとめておくことはできないだろう。  アスナは装備を整え、リファレンスマニュアルを全て暗記し、フィールドへと向かった。睡眠は日に二、三時間をとるのみで、残りの時間は全てレベルアップにつぎ込んだ。生来の知力と意思力をすべてゲーム攻略に傾けたとき、彼女がトップレベルプレイヤーに名を連ねるようになるまでそう長い時間はかからなかった。狂剣士・『閃光』アスナの誕生であった。  そして今——。二年が経ち、十七歳になったアスナは、当時の自分をいたましい気持ちとともに振り返る。いや、ゲーム開始直後の頃だけではない。それまでの、硬く収縮した世界でのみ生きていた自分に対しても、痛々しく、切ない感情を覚える。  自分は「生きる」という言葉の意味を知らなかった。ただただ、あるべき未来のことだけを考え、現在を犠牲にしつづけた。「今」というのは、正しい未来へと向かう過程でしかなく、それゆえに過ぎ去ると同時に虚無の中に消えてしまった。  どれか一つだけではだめなのだ。SAO世界を俯瞰すると深くそう思う。  未来のみを見る者は、かつての自分のように狂ったようにゲーム攻略にあけくれ、過去だけを抱く者は宿屋の一室でうずくまっている。現在だけに生きる者は犯罪者として刹那的な快楽を追い求める。  だが、この世界においてなお、現在を楽しみ、数々の思い出を作り、脱出に向けて努力することができる人々もいる。それを教えてくれたのが、一年前に出会った黒髪の剣士だ。彼のように生きたい、そう思ったときからアスナの日々は色彩を変えた。  今なら、現実世界でもあの殻を破れそうな気がする。自分のために生きられそうな気がするのだ。この人が傍らにいてくれる限り——。  アスナは、隣に立ち、彼なりの感慨を抱いて街並みを見ているのであろうキリトにそっと寄り添った。上空の石の蓋を眺めると、あの時の記憶がふたたび甦ってきたが、感じた痛みはかすかなものだった。  感傷を振り払うように頭を一振りすると、アスナはキリトの腕の中のユイの顔を覗き込んだ。 「ユイちゃん、見覚えのある建物とか、ある?」 「うー……」  ユイは難しい顔で、広場の周囲に連なる石造りの建築物を眺めていたが、やがて首を振った。 「わかんない……」 「まあ、始まりの街はおそろしく広いからな」  キリトがユイの頭を撫でながら言った。 「あちこち歩いてればそのうち何か思い出すかもしれないさ。とりあえず、中央マーケットに行ってみようぜ」 「そうだね」  頷きあい、二人は南に見える大通りに向かって歩き始めた。  それにしても——。歩きながら、アスナは少々いぶかしい気持ちで改めて広場を見渡した。意外なほど、人が少ない。  始まりの街のゲート広場は、二年前のサーバーオープン時に全プレイヤー五万人を収容しただけあってとてつもなく広い。完全な円形の、石畳が敷き詰められた空間の中央には巨大な時計塔がそびえ、その下部に転移ゲートが青く発光している。塔を取り囲むように、同心円状に細長い花壇が伸び、それに並んで瀟洒な白いベンチがいくつも設置されている。こんな天気のいい午後には一時の憩いを求めるプレイヤーで賑わってもおかしくないのに、見える人影は皆ゲートか広場の出口に向かって移動していくばかりで、立ち止まったりベンチに腰掛けたりしている者はほとんどいない。  上層にある大規模な街では、ゲート広場は常に無数のプレイヤーでごった返している。世間話に花を咲かせたり、パーティーを募集したり、簡単な露店を開いたりと、たむろする人々のせいでまっすぐ歩けないほどなのだが——。 「ねえ、キリト君」 「ん?」  振り向いたキリトに、アスナは尋ねた。 「ここって今プレイヤー何人くらいいるんだっけ?」 「うーん、そうだな……。生き残ってるプレイヤーが約四万、その三分の一くらいが始まりの街から出てないらしいから、一万三千人ってとこじゃないか?」 「そのわりには、人が少ないと思わない?」 「そう言われると……。マーケットのほうに集まってるのかな?」  しかし、広場から大通りに入り、NPCショップと屋台が建ち並ぶ市場エリアにさしかかっても、相変わらず街は閑散としていた。やたらと元気のいいNPC商人の呼び込み声が、通りを空しく響き渡っていく。  それでもどうにか、通りの中央に立つ大きな木の下に座り込んだ男を見つけ、アスナは近寄って声をかけてみた。 「あの、すみません」  妙に真剣な顔で高い梢を見上げている男は、顔を動かさないまま面倒くさそうに口を開いた。 「なんだよ」 「あの……この近くで、尋ね人の窓口になってるような場所、ありません?」  その言葉を聞いて、男はようやく視線をアスナに向けてきた。遠慮のない目つきでアスナの顔をじろじろと眺めまわす。 「なんだ、あんたよそ者か」 「え、ええ。あの……この子の保護者を探してるんですけど……」  背後に立つキリトの腕に抱かれ、うとうとまどろんでいるユイを指し示す。  クラスを察しにくい簡素な布服姿の男は、ちらりとユイを見やると多少目を丸くしたが、すぐにまた視線を頭上の梢へと移した。 「……迷子かよ、珍しいな。……東七区の川べりの教会に、ガキのプレイヤーが一杯集まって住んでるから、行ってみな」 「あ、ありがとう」  思いがけず有望そうな情報を得ることができて、アスナはぺこりと頭を下げた。物はついでと、更に質問してみることにする。 「あのー……一体、ここで何してるんですか? それに、なんでこんなに人がいないの?」  男は渋面を作りながらも、まんざらでもなさそうな口調で答えた。 「企業秘密だ、と言いたいとこだけどな。よそ者なら、まあいいや……。ほら、見えるだろ? あの高い枝」  男が伸ばした指の先を、アスナは目で辿った。大ぶりな街路樹は、頭上に張り出した枝々に赤金色に色づいた葉をびっしりと付けているが、目をこらしてみるとその葉影にいくつか、深紅の楕円形をした実が成っているのが見て取れる。 「もちろん街路樹は破壊不能オブジェクトだから、登ったって実はおろか葉っぱの一枚もちぎれないんだけどな」  男の言葉が続く。 「一日に何回か、あの実が落ちるんだよな……。ほんの数分で腐って消えちまうんだけど、それを逃さず拾えば、NPCにけっこうな値で売れるんだぜ。食ってもうまいしな」 「へえええー」  料理スキルをマスターしているアスナは、食材アイテムの話にはひとかたならぬ興味がある。 「幾らくらいで売れるの?」 「……これは黙っててくれよ。一個、十二コルだ」 「……」  得意げな男の顔を見ながら、アスナは思わず絶句した。その値段の、あまりの安さに驚愕したためだ。それでは、丸一日この樹に張り付いていても百コルも稼げない計算になる。 「あ……あの……それじゃあんまり割に合わないっていうか……。フィールドでワームの一匹も倒せば、百五十コルにはなりますよ」  そう言った途端、今度は男が目を丸くした。頭がおかしいんじゃないか、と言わんがばかりの視線をアスナに向けてくる。 「本気で言ってるのかよ。フィールドで、モンスターと戦ったりしたら……死んじまうかもしんねえだろうが」 「……」  アスナは返す言葉がなかった。確かに男が言うように、対モンスター戦には死の危険が常に付きまとう。だが現在のアスナの感覚では、それは現実世界で交通事故に遭うのを心配するようなもので、怖がってもはじまらないと言うしかない。  SAO内での死に対する自分の感覚が鈍磨しているのか、男がナーバスすぎるのか、咄嗟に判断することができずにアスナは立ち尽くした。多分、どちらが正解というものではないのだろう。始まりの街では、きっと男の言う事が常識なのだ。  アスナの複雑な心境など気にもとめぬ様子で、男はしゃべり続けた。 「で、何だっけ、人がいない理由? 別にいない訳じゃないぜ。みんな宿屋の部屋に閉じこもってるのさ。昼間は軍の徴税部隊に出くわすかもしれないからな」 「ちょ、ちょうぜい……。それは一体なんなの?」 「体のいいカツアゲさ。気をつけろよ、奴等よそ者だからって容赦しないぜ。おっ、一個落ちそうだ……話はこれで終わりだ」  男は口をつぐむと、真剣な眼差しで上空を睨み始めた。アスナはぺこりと頭を下げると、今の会話中ずっとキリトが沈黙していたことに気付き、後ろを振り返った。 「……」  そこにあったのは、戦闘中もかくやという真剣な目つきで赤い木の実を見据えているキリトの姿だった。どうやら次に落ちる実を全力で奪取するつもりらしい。 「やめなよもうー! 大人気ないなぁ」 「だ、だってさ、気になるじゃん」  アスナはキリトの襟くびを掴むと、ずるずる引きずりながら歩きはじめた。 「あ、ああ……うまそうなのに……」  未練たらたらなキリトの耳もとで、小声でささやく。 「あの人には悪いけど、買値十二コルの木の実がそんなに美味しいわけないよー」 「そ、そうか……」 「それより、東七区ってどのへん? 教会で若いプレイヤーが暮らしてるみたいだから、行ってみよう」  すっかり眠りに落ちてしまったユイを受け取り、しっかりと抱くと、アスナはマップをのぞき込みながら歩くキリトの横に並んで歩調を合わせた。  ユイは外見的には十歳程度の体格なので、現実世界でこんな真似をしたら数分で腕が抜けそうになるところだが、ここでは筋力パラメータ補正のお陰で羽毛のまくらほどの重さしか感じない。  相変わらず人影の少ないだだっぴろい道を、南東目指して十数分も歩くと、やがて建築物の少ない、広大な庭園めいたエリアに差し掛かった。黄色く色づいた広葉樹の林が、初冬の寒風の中わびしげに梢を揺らしている。 「えーと、マップではこのへんが東七区なんだけど……。その教会ってのはどこだろう」 「あ、あそこじゃない?」  アスナは、道の右手に広がる林の向こうに一際高い尖塔を見つけ、視線でその方向を示した。青灰色の屋根を持つ塔のいただきに、十字に円を組み合わせた金属製のアンクが輝いている。間違いなく教会のしるしだ。各町に最低ひとつはある施設で、内部の祭壇ではモンスターの特殊攻撃『呪い』の解除や対アンデッドモンスター用の武器の聖別などを行うことができる。魔法の要素がほとんど存在しないSAOにおいて、もっとも神秘的な要素のある場所と言ってよい。また、継続的にコルを納めることで教会内の小部屋を借りることもでき、宿屋の代わりに使う場合もある。 「ち、ちょっとまって」  教会に向かって歩き出そうとしたキリトを、アスナは呼び止めた。 「ん? どうしたの?」 「あ、ううん……。その……もし、あそこでユイちゃんの保護者が見つかったら、ユイちゃんを……置いてくるんだよね……?」 「……」  キリトの黒い目が、アスナをいたわるように和らいだ。近寄り、両腕でそっと、眠るユイごとアスナの体を包み込む。 「別れたくないのは俺もいっしょさ。何て言うのかな……ユイがいることで、あの森の家がほんとうの家庭になったみたいな……そんな気がしたもんな……。でも、会えなくなるわけじゃない。ユイが記憶を取り戻したら、きっとまた訪ねてきてくれるさ」 「ん……。そうだね」  ちいさく頷くと、アスナは腕の中のユイに頬をすり寄せ、意を決して歩き出した。  教会の建物は、街の規模に比べると小さなものだった。二階建てで、シンボルである尖塔も一つしかない。もっとも始まりの街には複数の教会が存在し、ゲート広場近くのものはちょっとした城館ほどのサイズがある。  アスナは、正面の大きな二枚扉の前に達すると、右手で片方の扉を押し開けた。公共施設なので当然鍵は掛けられていない。内部は薄暗く、正面の祭壇を飾るろうそくの炎だけが石敷きの床を弱々しく照らし出している。一見したところ人の姿はない。  入り口から上半身を乗り入れ、アスナは呼びかけた。 「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー?」  声が残響エフェクトの尾を引きながら消えていっても、誰も出てくる様子はない。 「誰もいないのかな……?」  首を傾げながら横に立つキリトの顔を見ると、彼はそっと首を振りながら口を開いた。 「いや、人がいるよ。右の部屋に三人、左に四人……。二階にも何人か」 「……索敵スキルって、壁の向こうの人数までわかるの?」 「熟練度九八〇からな。便利だからアスナも上げろよ」 「いやよ、修行が地味すぎて発狂しちゃうわよ。……それはそうと、何で隠れてるのかな……」  アスナはそっと教会内部に足を踏み入れた。しんとした静寂が周囲を包むが、なんとなくその中に息を潜める気配を感じるような気がする。 「あの、すみません、人を探してるんですが!」  今度はもう少し大きな声で呼びかける。すると——右手のドアが僅かに開き、そのむこうからか細い女性の声が響いてきた。 「……軍の人じゃ、ないんですか?」 「ちがいますよ。上の層から来たんです」  アスナもキリトも、帯剣はおろか戦闘用の防具ひとつとして身につけていない。軍所属のプレイヤーは常にユニフォームの重武装をまとっているので、格好だけでも、軍とは無関係であることがわかってもらえるはずだ。  やがて、ドアがゆっくりと開くと、その向こうから一人の女性プレイヤーがおずおずと姿を現した。  暗青色のショートヘア、黒ぶちの大きなメガネをかけ、その奥で怯えをはらんだ深緑色の瞳をいっぱいに見開いている。簡素な濃紺のプレーンドレスを身にまとい、手には鞘に収められた小さな短剣。 「ほんとに……軍の徴税官じゃないんですね……」  アスナは安心させるように女性に微笑みかけると、頷いた。 「ええ、私たちは人を探していて、今日上から来たばかりなんです。軍とは何の関係もないですよ」  その途端——。 「上から!? ってことは本物の剣士なのかよ!?」  甲高い、少年めいた叫び声と共に、女性の背後のドアが大きく開き、中から数人の人影がばらばらと走り出してきた。直後、祭壇の左手のドアも開け放たれ、同じく数名が駆け出してくる。  あっけにとられたアスナとキリトが声もなく見守るなか、メガネの女性の両脇にずらりと並んだのは、どれも少年少女と言ってよいうら若いプレイヤーたちだった。下は十二歳、上は十四歳といったところだろう。皆興味しんしんといったふうにアスナとキリトを眺め回している。 「こら、あんた達、部屋に隠れてなさいって言ったじゃないー」  慌てたように子供たちを押し戻そうとする女性だけが二十歳前後と思われる。もっとも、誰一人として命令に従う子はいない。  だが、やがて、先程真っ先に部屋から走り出してきた、赤毛の短髪をつんつん逆立てた少年が、失望したような叫び声をあげた。 「なんだよ、剣の一本も持ってないじゃん。ねえあんた、上から来たんだろ? 武器くらい持ってないのかよ?」  後半はキリトに向かって発せられた言葉である。 「い、いや、ないことはないけど……」  目を白黒させながらキリトが答えると、再び子供たちの顔がぱっと輝いた。見せて、見せてと、口々に言い募る。 「こらっ、初対面の方に失礼なこと言っちゃだめでしょう。——すみません、普段お客様なんてないものですから……」  いかにも恐縮したように頭を下げるメガネの女性に向かって、アスナはあわてて言った。 「い、いえ、かまわないです。——ね、キリトくん、いくつかアイテム欄に入れっぱなしだっと思うから、見せてあげたら?」 「う、うん」  アスナの提案に頷くと、キリトはウインドウを開き、指を動かし始めた。たちまち幾つもの武器アイテムがオブジェクト化され、傍らの長机の上に積み上げられていく。最近の冒険でモンスターがドロップしたアイテムを、換金する暇がなくて放置していたものだ。  キリトが、二人の装備品を除く余剰アイテムを全て取り出しウインドウを閉じると、子供たちが歓声を上げてその周囲に群がった。次々と剣やメイスを手にとっては刃の銀色の輝きに見入っている。過保護な親が見たら卒倒しそうな光景だが、街区圏内では武器をどう扱おうとそれによってダメージを受けることは有り得ない。 「——すみません、ほんとに……」  メガネの女性が、困ったように眉を寄せつつも、喜ぶ子供たちの様子に笑みを浮べながら、言った。 「……あの、こちらへどうぞ。今お茶の準備をしますので……」  礼拝堂の右にある小部屋に案内されたアスナとキリトは、振舞われた熱い茶をひとくち飲んでほっと息をついた。 「それで……人を探してらっしゃるということでしたけど……?」  向かいの椅子に腰掛けたメガネの女性プレイヤーが、ちいさく首を傾けながら言った。 「あ、はい。ええと……わたしはアスナ、この人はキリトといいます」 「あっ、すみません、名前も言わずに。わたしはサーシャです」  ぺこりと頭を下げあう。 「で、この子が、ユイです」  膝の上で眠りつづけるユイの髪をそっと撫でながら、アスナは言葉を続けた。 「この子、二十二層の森の中で迷子になってたんです。記憶を……無くしてるみたいで……」 「まあ……」  サーシャという女性の、大きな深緑色の瞳がメガネの奥でいっぱいに見開かれる。 「装備も、服以外はなんにもなくて、上層で暮らしてたとは思えなくて……。それで、始まりの街に保護者とか……この子のことを知ってる人がいるんじゃないかと思って、探しに来たんです。で、こちらの教会で、子供たちが集まって暮らしていると聞いたものですから……」 「そうだったんですか……」  サーシャは両手でカップを包み込むと、視線をテーブルに落とした。 「……この教会には、いま、小学生から中学生くらいの子供たちが三十人くらい暮らしています。多分、いま始まりの街にいる子供プレイヤーのほぼ全員だと思います。このゲームがはじまったとき……」  声はか細いが、意外にはっきりした口調でサーシャが話しはじめた。 「それくらいの子供たちのほとんどは、パニックを起こして多かれ少なかれ精神的に問題を来しました。勿論ゲームに適応して、街を出て行った子供もいるんですが、それは例外的なことだと思います」  当時中学三年だったアスナにも覚えのあることだった。宿屋の一室で閉じこもっていた頃は確かに精神が崩壊するぎりぎりまで追い詰められていたと思う。 「当然ですよね、まだまだ親に甘えたい盛りに、いきなりここから出られない、ひょっとしたら二度と現実に戻れない、なんて言われたんですから……。そんな子供たちは大抵虚脱状態になって、中には何人か……自殺した子もいるようです」  サーシャの口許がかたくこわばる。 「わたし、ゲーム開始から一ヶ月くらいは、ゲームクリアを目指そうと思ってフィールドでレベル上げしてたんですけど……ある日、そんな子供たちの一人を街角で見かけて、どうしても放っておけなくて、連れてきて宿屋で一緒に暮らしはじめたんです。それで、そんな子供たちが他にもいると思ったらいてもたってもいられなくなって、街じゅうを回っては独りぼっちの子供に声をかけるようなことを始めて。気付いたら、こんなことになってたんです。だから、なんだか……お二人みたいに、上層で戦ってらっしゃる方もいるのに、わたしはドロップアウトしちゃったのが、申し訳なくて」 「そんな……そんなこと」  アスナは首を振りながら、一生懸命言葉を探そうとしたが、喉がつまって声にならなかった。後を引き継ぐようにキリトが言った。 「そんなこと、ないです。サーシャさんは立派に戦ってる……俺なんかより、ずっと」 「ありがとうございます。でも、義務感でやってるわけじゃないんですよ。子供たちと暮らすのはとっても楽しいです」  ニコリと笑い、サーシャは眠るユイを心配そうに見つめた。 「だから……私たち、二年間ずっと、毎日一エリアずつ回って、困ってる子供がいないか調べてるんです。そんな小さい子がいれば、絶対気付いたはずです。残念ですけど……始まりの街で暮らしてた子じゃあ、ないと思います」 「そうですか……」  アスナはうつむき、ユイをきゅっと抱きしめた。気を取り直すように、サーシャの顔を見る。 「あの、立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とか、どうしてるんですか?」 「あ、それは、わたしの他にも、街周辺のフィールドなら絶対大丈夫な程度のレベルになった年長の子が何人かいますので、食事代くらいはなんとかなってます。ぜいたくはできませんけどね」 「へえ、それは凄いな……。さっき街で話を聞いたら、フィールドでモンスターを狩るなんて常識外の自殺行為だって言ってましたよ」  キリトの言葉に、サーシャはこくりと頷いた。 「基本的に、今始まりの街に残ってるプレイヤーは全員そういう考えだと思います。それが悪いとは言いません、死の危険を考えれば仕方ないことなのかもしれないんですが……。でも、そのせいでわたしたちは、この街の平均的プレイヤーよりお金を稼いでいることになっちゃうんです」  確かに、この教会の客室を常時借り切っているなら、一日あたり数百コルが必要になるだろう。先刻の木の実ハンターの男の日収を大きく上回る額だ。 「だから、最近目をつけられちゃって……」 「……誰に、です?」  サーシャの気弱そうな目が一瞬厳しくなった。言葉を続けようと口を開いた、その時——。 「先生! サーシャ先生! 大変だ!!」  部屋のドアがばんと開き、数人の子供たちがなだれ込んできた。 「こら、お客様に失礼じゃないの!」 「それどこじゃないよ!!」  先程の赤毛の少年が、目に涙を浮べながら叫んだ。 「ギン兄ィ達が、軍のやつらにつかまっちゃったよ!!」 「——場所は?」  別人のように毅然とした態度で立ち上がったサーシャが、少年に尋ねた。 「東五区の道具屋裏の空き地。軍が十人くらいで通路をブロックしてる。クリオだけが逃げられたんだ」 「わかった。——すみませんが……」  サーシャはアスナとキリトのほうに向き直ると、軽く頭を下げ、言った。 「わたしはすぐに子供たちを助けに行かなければなりません。お話はまたのちほど……」 「俺たちも行くよ、先生!!」  赤毛の少年が叫ぶと、その後ろの子供たちも口々に同意も声を上げた。少年はキリトのそばに駆け寄り、必至の形相で言った。 「兄ちゃん、さっきの武器、貸してくれよ! あれがありゃあ、軍の連中もすぐ逃げ出すよ!」 「いけません!」  サーシャの叱責が飛ぶ。 「あなたたちはここで待ってなさい!」  その時、今まで無言で成り行きを見守っていたキリトが、子供たちをなだめるように右手を上げた。普段は茫洋と掴み所のない態度の彼だが、こんな時だけは不思議な存在感を発揮し、子供たちがぴたりと口をつぐむ。 「——残念だけど——」  落ち着いた口調でキリトが話しはじめた。 「あの武器は、必要パラメータが高すぎて君じゃ装備できない。俺たちが助けに行くよ。こう見えてもこのお姉ちゃんは無茶苦茶強いんだぞ」  ちらりと視線を向けるキリトに、アスナも大きく頷き返した。立ち上がり、サーシャのほうに向き直って口を開く。 「わたし達にもお手伝いさせてください。少しでも人数が多いほうがいいはずです」 「——ありがとう、お気持ちに甘えさせていただきます」  サーシャは深く一礼すると、メガネをぐっと押し上げ、言った。 「それじゃ、すみませんけど走ります!」  教会から飛び出したサーシャは、腰の短剣をきらめかせながら北に向かって一直線に走りはじめた。キリトと、ユイを抱いたアスナもその後を追う。走りながらアスナがちらりと後ろを振り返ると、大勢の子供たちがついてくるのが見えたが、サーシャも追い返す気は無いようだった。  林の間を縫うように走り、やがて現れた東六区の市街地の裏通りを抜けていく。最短距離をショートカットしているようで、NPCショップの店先や民家の庭などを突っ切って進むうち、前方の細い路地を塞ぐ、見覚えのある制服を身にまとった男達の一団が目に入った。どうやらその向こうで、狩りに出ていた教会の子供たちを取り囲んでいるらしく、威圧的な胴間声が漏れ聞こえてくる。  路地に走りこんだサーシャが足を止めると、それに気付いた軍のプレイヤーたちが振り返り、にやりと笑みを浮べた。 「おっ、保母さんの登場だぜ」 「……子供たちを返してください」  硬い声でサーシャが言う。 「人聞きの悪いこと言うなよォ。すぐに返してやるよ、ちょっと社会常識ってもんを教えてやったらな」 「そうそう。市民には納税の義務があるからな」  ひゃははは、と男達が甲高い笑い声を上げた。固く握られたサーシャの拳がぶるぶると震える。 「ギン! ケイン! ミナ!! そこにいるの!?」  サーシャが男達の向こうに呼びかけると、すぐに怯えきった少女の声でいらえがあった。 「先生! 先生……助けて!」 「お金なんていいから、全部渡してしまいなさい!」 「先生……だめなんだ……!」  今度は、しぼり出すような少年の声。 「クッヒャッ」  道をふさぐ男の一人が、ひきつるような笑いを吐き出した。 「あんたら、ずいぶん税金を滞納してるからなぁ……。金だけじゃ足りないよなぁ」 「そうそう、装備も置いてってもらわないとなァー。防具も全部……何から何までな」  男達の下卑た笑いを見て、アスナは路地の奥で何が行われているか咄嗟に察した。たぶん兵士たちは、少女を含む子供たちに、着衣も全て解除しろと要求しているのだ。アスナの内部に殺意にも似た憤りが芽生える。  サーシャも同時にそれを察したらしく、殴りかからんばかりの勢いで男たちに詰め寄った。 「そこを……そこをどきなさい! さもないと……」 「さもないと、何だい、保母先生? あんたがかわりに税金を払うかい?」  にやにや笑う男達は、まったく動こうとするそぶりを見せない。  街の内部、いわゆる街区圏内では、犯罪防止コードというプログラムが常時働いており、他のプレイヤーにダメージを与えることはもちろん、無理矢理移動させるような真似は一切できない。しかしそれは裏を返せば、行く手を阻もうとする悪意のプレイヤーも排除できないということであり、このように通路を塞いで閉じ込める「ブロック」、更には直接数人で取り囲んで相手を一歩も動けなくしてしまう「ボックス」といった悪質なハラスメント行為の存在を許す結果となっている。  だがそれも、あくまで地面を移動する場合においてのみ可能な行為だ。アスナはキリトを見やると、言った。 「行こう、キリトくん」 「ああ」  頷きあい、二人は地面を蹴った。  敏捷力と筋力のパラメータを全解放する勢いで跳躍した二人は、呆然とした表情で見上げるサーシャと軍メンバーの頭上を軽々と飛び越え、数回建物の壁を蹴りながら飛翔すると、四方を壁に囲まれた空き地へと降り立った。 「うわっ!?」  その場にいた数人の男達が驚愕の表情で飛びすさる。  空き地の片隅には、十代なかばと思しき二人の少年と一人の少女が、固まって身を寄せ合っていた。少女は白いキャミソール一枚、少年たちも下着姿だ。アスナは唇を噛むと、子供たちに歩み寄り、微笑みかけながら言った。 「もう大丈夫よ。早く服を着なさい」  少年たちはこくりと頷くと、慌てて足元から着衣を拾い上げ、ウインドウを操作しはじめる。 「おい……オイオイオイ!!」  その時、ようやく我に返った軍プレイヤーの一人がわめき声を上げた。 「なんだお前らはァ!! 邪魔すんのかコラァ!!」 「おっ、待て待て、この女いけるじゃん」  アスナの顔をじろじろ見ながら、ひときわ重武装の男が進み出てきた。どうやらリーダー格らしい。 「姉ちゃん、見ない顔だけど、俺たちの邪魔すっとどうなるか、わかってんだろうな? 逃がしゃしねえぞ。本部でじっくり話、しようや」 「おお、それいいねぇ」  周囲の男達が追従するように笑い声を上げる。調子に乗って近寄ってきたリーダーは、夏みかんの皮に切れ目を入れたようなごつごつした顔を突き出してアスナの顔を覗き込み、次いでアスナの腕の中で眠っているユイに視線を落とした。ぴゅう、とヘタな口笛を吹き、言う。 「うほっ、これ姉ちゃんのガキかよ?」  再び、野卑な爆笑。 「ま、姉ちゃんがあいつらのかわりに税金払ってくれるなら文句はねえや。さ、本部いこうか。そのガキもいっしょにな」 「そのへんにしといたほうがいいぞ」  低い、キリトの声が流れた。 「いますぐ消えろ。そろそろ我慢の限界だからな」 「……なんだと?」  リーダーの細い目が凶暴な光を帯びる。腰から大ぶりのブロードソードを引き抜くと、わざとらしい動作でぺたぺた刀身を手のひらに打ちつけながら数歩キリトに歩み寄った。剣の表面が低い西日を反射してぎらぎらと輝く。一度の損傷も修理も経験していない、新品の武器特有の輝き。 「てめえこそ消えろや! 邪魔すんじゃねえよ、何なら圏外行くか圏外! おぉ?」 「……剣を振ったことも無い人間が剣士じみた口を利くな……」  アスナの唇からかすれた声が漏れた。事が穏便に済めばそれが一番といままで我慢していたが、ユイを欲望でぎらつく目で見られた瞬間、憤激が限界を超えたのを自覚していた。 「……キリトくん、ユイちゃんをお願い」  キリトにユイを渡すと、彼はいつの間にか実体化させていたアスナの細剣を片手でひょいと放ってきた。受け取りざま鞘を払い、リーダーに向かってすたすたと歩み寄る。 「お……お……?」  状況が飲み込めず、口を半開きにする男の顔面に向かって、アスナはいきなり全力の片手突きを叩き込んだ。  周囲を染める紫色の閃光。爆発にも似た衝撃音。男の重そうな体が宙をくるくると回りながら吹き飛び、数メートル離れた石壁に激突して再び紫の閃光を撒き散らした。 「そんなに戦闘がお望みなら、わざわざフィールドに行く必要はないわ」  地面に座り込んで、両目を限界まで丸く見開いた男の前まで歩み寄ると、アスナは再び右手を閃かせた。閃光。轟音。リーダーの体が地面をごろごろと転がる。 「安心して、HPは減らないから。そのかわり、圏内戦は恐怖を刻み込む」  容赦ない歩調で三たび歩み寄るアスナの姿を見上げ、リーダーはようやくアスナの意図を悟ったように唇をわななかせた。  犯罪防止コード圏内では、武器による攻撃をプレイヤーに命中させても見えない障壁に阻まれてダメージが届くことはない。だがこのルールにも裏の意味があり、つまり攻撃者が犯罪者カラーに落ちることもないということになる。  それを利用したのが「圏内戦闘」であり、通常は訓練の模擬戦闘として行われる。しかし、攻撃者のパラメータとスキルが上昇するにつれ、コード発動時のシステムカラーの発光と衝撃音は過大なものとなり、また両者のステータス差があまりに大きいと、発生する衝撃によって宙を吹き飛ぶような事も起こりうる。慣れない者にとっては、HPが減らないとわかっていてもその恐怖はおおよそ耐えられるものではない。 「ひあっ……ぐぎゃっ……やめっ……」  アスナの剣撃によって宙を舞うたびに、リーダーはだらしない悲鳴を上げた。 「お前らっ……見てないで……なんとかしろっ……!!」  その声に、ようやく我に返った軍メンバーが、つぎつぎと武器を抜いた。  南北の通路からも、予想外の事態を察したブロック役のプレイヤー達が走りこんでくる。  半円形に周囲を取り囲む男達に、アスナは狂戦士時代に戻ったような爛々と光る眼を向けた。物も言わず地面を蹴り、集団に突っ込んでいく。  たちまち、轟音と絶叫の連続が狭い空き地に充満した。  数分後——。  我に返ったアスナが足を止め、剣を降ろすと、空き地にはわずか数人の軍プレイヤー達が失神して転がるのみだった。残りは皆リーダーを見捨てて逃げ出したらしい。 「ふう……」  大きくひとつ息をついて、細剣を鞘に収め、振り返ると——そこには、絶句してアスナを見つめるサーシャと、教会の子供たちの姿があった。 「あ……」  アスナは息を詰めて一歩後ずさった。先程の、怒りに身を任せた修羅のごとき荒れようは、さぞかし子供たちを怯えさせただろうと思い、悄然とうつむく。  だが突然、子供たちの先頭にいた、例の赤毛で逆毛の少年が、目を輝かせながら叫んだ。 「すげえ……すげえよ姉ちゃん!! 初めて見たよあんなの!!」 「このお姉ちゃんは無茶苦茶強い、って言ったろう」  にやにや笑いながらキリトが進み出てきた。左手でユイを抱き、右手には剣を下げている。どうやら数人は彼が相手をしたらしい。 「……え、えへへ」  困ったようにアスナが笑うと、子供たちがわっと歓声を上げて一斉に飛びついてきた。サーシャも両手を胸の前で握り締め、両目に涙を溜めて泣き笑いのような表情を浮べている。  その時だった。 「みんなの——みんなのこころが——」  細いが、よく通る声が響いた。アスナははっとして顔を上げた。キリトの腕のなかで、いつのまにか目覚めたユイが宙に視線を向け、右手をその方向へ伸ばしていた。  アスナはあわててその方角を見やったが、そこには何もない。 「みんなのこころが——ひかりに……」 「ユイ! どうしたんだ、ユイ!!」  キリトが叫ぶとユイは二、三度まばたきをして、きょとんとした表情を浮べた。アスナもあわてて走りより、ユイの手を握る。 「ユイちゃん……何か、思いだしたの!?」 「……あたし……あたし……」  眉を寄せ、うつむく。 「あたし、ここには……いなかった……。ずっと、ひとりで、暗い場所にいた……」  何かを思い出そうとするかのように顔をしかめ、唇を噛む。と、突然——。 「うあ……あ……ああああ!!」  その顔がのけぞり、細いのどから高い悲鳴がほとばしった。 「!?」  ザ、ザッという、SAO内で初めて聞くノイズのような音がアスナの耳に響いた。直後、ユイの硬直した体のあちこちが、崩壊するようにぶれ、振動した。 「ゆ……ユイちゃん……!」  アスナも悲鳴を上げ、その体を両手で必死に包み込む。 「ママ……こわい……ママ……!!」  かぼそい悲鳴を上げるユイをキリトの腕から抱き上げ、アスナはぎゅっと胸に抱きしめた。数秒後、怪現象は収まり、硬直したユイの体から力が抜けた。 「なんだよ……今の……」  キリトのうつろな呟きが、静寂に満ちた空き地にかすかに流れた。     三日目 「ミナ、パンひとつ取って!」 「ほら、余所見してるとこぼすよ!」 「あーっ、先生ー! ジンが目玉焼き取ったー!」 「これは……すごいな……」 「そうだね……」  アスナとキリトは、目前で繰り広げられる戦場さながらの朝食風景に、呆然とつぶやき交わした。  始まりの街、東七区の教会一階の広間。巨大な長テーブル二つに所狭しと並べられた大皿の卵やソーセージ、野菜サラダを、三十人の子供たちが盛大に騒ぎながらぱくついている。 「でも、凄く楽しそう」  少し離れた丸テーブルに、キリト、ユイ、サーシャと一緒に座ったアスナは、微笑しながらお茶のカップを口許に運んだ。 「毎日こうなんですよ。いくら静かにって言っても聞かなくて」  そう言いながら、子供たちを見るサーシャの目は心底愛しそうに細められている。 「子供、好きなんですね」  アスナが言うと、サーシャは照れたように笑った。 「向こうでは、大学で教職課程取ってたんです。ほら、学級崩壊とか、問題になってたじゃないですか。子供たちを、私が導いてあげるんだーって、燃えてて。でもここに来て、あの子たちと暮らし始めてみると、見ると聞くとは大違いで……。彼らより、私のほうが頼って、支えられてる部分のほうが大きいと思います。でも、それでいいって言うか……。それが自然なことに思えるんです」 「何となくですけど、わかります」  アスナは頷いて、隣の椅子で真剣にスプーンを口に運ぶユイの頭をそっと撫でた。ユイの存在がもたらす暖かさは驚くほどだ。キリトと触れ合うときの、胸の奥がきゅっと切なくなる愛しさとはまた違う、目に見えない羽根で包み、包まれるような、静かな安らぎを感じる。  昨日、謎の発作を起こし倒れたユイは、幸い数分で目を覚ました。だが、すぐに長距離を移動させたり転移ゲートを使わせたりする気にならなかったアスナは、サーシャの熱心な誘いもあり、教会の空き部屋を一晩借りることにしたのだった。  今朝からはユイの調子もいいようで、アスナとキリトはひとまず安心したのだが、しかし基本的な状況は変わっていない。かすかに戻ったらしきユイの記憶によれば、始まりの街に来たことはないようだったし、そもそも保護者と暮らしていた様子すらないのだ。となるとユイの記憶障害、幼児退行といった症状の原因も見当がつかないし、これ以上何をしていいのかもわからない。  だがアスナは、心の奥底では気持ちを固めていた。  これからずっと、ユイの記憶が戻る日まで、彼女といっしょに暮らそう。休暇が終わり、前線に戻る時が来ても、何か方法はあるはず——。  ユイの髪を撫でながらアスナが物思いに耽っていると、キリトがカップを置き、話しはじめた。 「サーシャさん……」 「はい?」 「……軍のことなんですが。俺が知ってる限りじゃ、あの連中は専横が過ぎることはあっても治安維持には熱心だった。でも昨日見た奴等はまるで犯罪者だった……。いつから、ああなんです?」  サーシャは口許を引き締めると、答えた。 「そう昔のことじゃないです、『徴税』が始まったのは。軍が分裂してるな、って感じがし始めたのは半年くらい前からです……。恐喝まがいの行為をはじめた人達と、それを逆に取り締まる人達もいて。軍のメンバーどうして対立してる場面も何度も見ました。噂じゃ、上のほうで権力争いか何かあったみたいで……」 「うーん……。なにせメンバー数千人の巨大集団だからなぁ。一枚岩じゃないだろうけど……。でも昨日みたいなことが日常的に行われてるんだったら、放置はできないよな……。アスナ」 「なに?」 「奴はこの状況を知ってるのか?」  奴、という言葉の嫌そうな響きでそれが誰を意味するか察したアスナは、笑みを噛み殺しながら言った。 「知ってる、んじゃないかな……。団長は軍の動向に詳しかったし。でもあの人、何て言うか、ハイレベルの攻略プレイヤー以外には興味なさそうなんだよね……。キリト君のこととかずっと昔からあれこれ聞かれたけど、オレンジギルドが暴れてるとかそんな話には知らんぷりだったし。多分、軍をどうこうするためにギルドを動かしたりとかはしないと思うよ」 「まあ、奴らしいと言えば言えるよな……。でも俺たちだけじゃ出来ることもたかが知れてるし、そもそも圏内じゃ暴れようもないしなぁ」  眉をしかめてお茶を啜ろうとしたキリトが、不意に顔を上げ、教会の入り口のほうを見やった。 「誰かくるぞ。一人……」 「え……。またお客様かしら……」  サーシャの言葉に重なるように、館内に音高くノックの音が響いた。  腰に短剣を吊るしたサーシャと、念のためについていったキリトに伴われて食堂に入ってきたのは、長身の女性プレイヤーだった。  銀色の長い髪をポニーテールに束ね、怜悧という言葉がよく似合う、鋭く整った顔立ちのなかで、空色の瞳が印象的な光を放っている。  髪型、髪色、さらに瞳の色までも自由にカスタマイズできるSAOだが、もともとの素材が日本人であるため、このような強烈な色彩設定が似合うプレイヤーはかなり少ないと言える。アスナ自身も、かつて髪をチェリーピンクに染め、失意のうちにブラウンに戻したという人には言えない過去がある。  美人だなぁ、キリトくんこういう人が好みなのかなぁという穏やかならぬ第一印象ののち、改めて彼女の装備に視線を落としたアスナは、思わず体を固くして腰を浮かせた。  鉄灰色のケープに隠されているが、女性プレイヤーが身にまとう濃緑色の上着と大腿部がゆったりとふくらんだズボン、ステンレススチールふうに鈍く輝く金属鎧は、間違いなく「軍」のユニフォームだ。右腰にショートソード、左腰にはぐるぐると巻かれた、黒革のウィップが吊るされている。  女性の身なりに気付いた子供たちも一斉に押し黙り、目に警戒の色を浮べて動きを止めている。だが、サーシャは子供たちに向かって笑いかけると、安心させるように言った。 「みんな、この方はだいじょうぶよ。食事を続けなさい」  一見頼り無さそうだが子供たちからは全幅の信頼を置かれているらしいサーシャの言葉に、皆ほっとしたように肩の力を抜き、すぐさま食堂に喧騒が戻った。その中を丸テーブルまで歩いてきた女性プレイヤーは、サーシャから椅子を勧められると軽く一礼してそれに腰掛けた。  事情が飲み込めず、視線でキリトに問い掛けると、椅子に座った彼も首を傾げながらアスナに向かって言った。 「ええと、この人はユリエールさん。どうやら俺たちに話しがあるらしいよ」  ユリエールと紹介された銀髪の鞭使いは、まっすぐな視線を一瞬アスナに向けたあと、ぺこりと頭を下げて口を開いた。 「はじめまして、ユリエールです。ギルドALFに所属してます」 「ALF?」  初めて聞く名にアスナが問い返すと、女性は小さく首をすくめた。 「あ、すみません。アインクラッド解放軍、の略です。その名前はどうも苦手で……」  女性の声は、落ち着いた艶やかなアルトだった。常々自分の声が子供っぽいと思っているアスナはさらに穏やかでない気分になりながら、挨拶を返す。 「はじめまして。私はギルド血盟騎士団の——あ、いえ、今は脱退中なんですが、アスナと言います。この子はユイ」  時間をかけてスープの皿を空にし、シトラスジュースに挑んでいる最中だったユイは、ふいっと顔を上げるとユリエールを注視した。わずかに首を傾げるが、すぐにニコリと笑い、視線を戻す。  ユリエールは、血盟騎士団の名を聞くと、わずかに目を見張った。 「KoB……。なるほど、道理で連中が軽くあしらわれるわけだ」  連中、というのが昨日の暴行恐喝集団のことだと悟ったアスナは、ふたたび警戒心を強めながら言った。 「……つまり、昨日の件で抗議に来た、ってことですか?」 「いやいや、とんでもない。その逆です、よくやってくれたとお礼を言いたいくらい」 「……」  事情が飲み込めず沈黙するキリトとアスナに向かって、ユリエールは姿勢を正して話しはじめた。 「今日は、お二人にお願いがあって来たのです。最初から、説明します。ALF……、軍というのは、昔からそんな名前だったわけじゃないんです……」 「軍が今の名前になったのは、かつてのサブリーダーで今の軍の実質的支配者、キバオウという男が実権を握ってからのことです……。最初はギルドMTDって名前で……、聞いたこと、ありませんか?」  アスナは覚えが無かったが、キリトは軽くうなずいて言った。 「MMOトゥデイだろう。SAO開始当時、日本最大のネットゲーム情報サイトだった……。ギルドを結成したのは、そこの管理者だったはずだ。たしか、名前は……」 「シンカー」  その名前を口にしたとき、ユリエールの顔がわずかに歪んだ。 「彼は……決して今のような、独善的な組織を作ろうとしたわけじゃないんです。ただ、情報とか、食料とかの資源をなるべく多くのプレイヤーで均等に分かち合おうとしただけで……」  そのへんの、「軍」の理想と崩壊についてはアスナも伝え聞いて知っていた。多人数でモンスター狩りを行い、危険を極力減らした上で安定した収入を得てそれを均等に分配しようという思想それ自体は間違っていない。だがMMORPGの本質はプレイヤー間でのリソースの奪い合いであり、それはSAOのような異常かつ極限状況にあるゲームにおいても変わらなかった。いや、むしろだからこそ、と言うべきか。  ゆえに、その理想を実現するためには、組織の現実的な規模と強力なリーダーシップが必要であり、その点において軍はあまりにも巨大すぎたのだ。得たアイテムの秘匿が横行し、粛清、反発が相次ぎ、リーダーは徐々に指導力を失っていった。 「そこに台頭してきたのがキバオウという男です」  ユリエールは苦々しい口調で言った。 「彼は、体制の強化を打ち出して、ギルドの名前をアインクラッド解放軍に変更させ、さらに公認の方針として犯罪者狩りと効率のいいフィールドの独占を推進しました。それまで、一応は他のギルドとの友好も考え狩場のマナーは守ってきたのですが、人数を傘にきて長時間の独占を続けることでギルドの収入は激増し、キバオウ一派の権力はどんどん強力なものとなっていったのです。最近ではシンカーはほとんど飾り物状態で……。キバオウ派のプレイヤー達は調子に乗って、街区圏内でも徴税、と称して恐喝まがいの行為を繰り返すようにすらなっていました。昨日、あなた方が痛い目に会わせたのはそんな連中の急先鋒だった奴等です」  ユリエールは一息つくと、サーシャの淹れたお茶をひとくち含み、続けた。 「でも、キバオウ派にも弱みはありました。それは、資財の蓄積だけにうつつを抜かして、ゲーム攻略をないがしろにし続けたことです。本末転倒だろう、という声が末端のプレイヤーの間で大きくなって……。その不満を抑えるため、最近キバオウは無茶な博打に打って出ました。ギルドの中で、もっともハイレベルのプレイヤー十数人で攻略パーティーを作って、最前線のボス攻略に送り出したんです」  アスナは、思わずキリトと顔を見合わせた。七十四層迷宮区で散ったコーバッツの一件は記憶に新しいところだ。 「いかにハイレベルと言っても、もともと私達は攻略組の皆さんに比べれば力不足は否めません。パーティーは敗退、隊長は死亡という最悪の結果になり、キバオウはその無謀さを強く糾弾されたのです。もう少しで彼を追放できるところまで行ったのですが……」  ユリエールは高い鼻梁にしわを寄せ、唇を噛んだ。 「こともあろうに、キバオウはシンカーをだまして、回廊結晶を使って彼をダンジョンの奥深くに放逐してしまったのです。ギルドリーダーの証である『約定のスクロール』を操作できるのはシンカーとキバオウだけ、このままではギルドの人事や会計まですべてキバオウにいいようにされてしまいます。むざむざシンカーを罠にかけさせてしまったのは彼の副官だった私の責任、私は彼を救出に行かなければなりません。でも、彼が幽閉されたダンジョンはとても私のレベルでは突破できません。そこに、昨日、恐ろしく強い二人組みが街に現れたという話を聞きつけ、いてもたってもいられずに、お願いに来た次第です。キリトさん——アスナさん」  ユリエールは深々と頭を下げ、言った。 「どうか、私と一緒にシンカーを救出に行ってください」  長い話を終え、口を閉じたユリエールの顔を、アスナはじっと見つめた。悲しいことだが、SAO内では他人の言うことをそう簡単に信じることはできない。今回のことにしても、キリトとアスナを圏外におびきだし、危害を加えようとする陰謀である可能性は捨てきれない。通常は、ゲームに対する十分な知識さえあれば、騙そうとする人間の言うことにはどこか綻びが見つかるものだが、残念ながらアスナ達は『軍』の内情に関してあまりにも無知すぎた。  キリトと一瞬目を見交わして、アスナは重い口を開いた。 「——わたしたちに出来ることなら、力を貸して差し上げたい——と思います。でも、その為には、こちらで最低限のことを調べてあなたのお話の裏付けをしないと……」 「それは——当然、ですよね……」  ユリエールはわずかにうつむいた。 「無理なお願いだってことは、私にもわかってます……。でも……『生命の碑』の、シンカーの名前の上に、いつ線が刻まれるかと思うともうおかしくなりそうで……」  銀髪の鞭使いの、気丈そうなくっきりとした瞳がうるむのを見て、アスナの気持ちは揺らいだ。信じてあげたい、と痛切に思う。しかし同時に、この世界で過ごした二年間の経験は、感傷で動くことの危うさへ大きく警鐘を鳴らしている。  キリトを見やると、彼もまた迷っているようだった。じっとこちらを見つめる黒い瞳は、ユリエールを助けたいという気持ちと、アスナの身を案じる気持ちの間で揺れる心を映している。  ——その時だった。今まで沈黙していたユイが、ふっとカップから顔を上げ、言った。 「だいじょうぶだよ、ママ。その人、うそついてないよ」  アスナはあっけにとられ、キリトと顔を見合わせた。発言の内容もさることながら、昨日までの言葉のたどたどしさが嘘のような立派な日本語である。 「ユ……ユイちゃん、そんなこと、わかるの……?」  顔を覗き込むようにして問いかけると、ユイはこくりと頷いた。 「うん。うまく……言えないけど、わかる……」  その言葉を聞いたキリトは右手を伸ばし、ユイの頭をくしゃくしゃと撫でた。アスナを見て、にやっと笑う。 「疑って後悔するよりは信じて後悔しようぜ。行こう、きっとうまくいくさ」 「あいかわらずのんきな人ねえ」  首を振りながら答えると、アスナはユリエールに向き直って微笑みかけた。 「……微力ですが、お手伝いさせていただきます。大事な人を助けたいって気持ち、わたしにもよくわかりますから……」  ユリエールは、空色の瞳に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。 「ありがとう……ありがとうございます……」 「それは、シンカーさんを救出してからにしましょう」  アスナがもういちど笑いかけると、いままで黙って事態のなりゆきを見守っていたサーシャがぽんと両手を打ち合わせ、言った。 「そういうことなら、しっかり食べていってくださいね! まだまだありますから、ユリエールさんもどうぞ」  初冬の弱々しい陽光が、深く色づいた街路樹の梢を透かして石畳に薄い影を作っている。『はじまりの街』の裏通りは行き交う人もごく少なく、無限とも思える街の広さとあいまって寒々しい印象を隠せない。  しっかり武装したアスナと、ユイを抱いたキリトは、ユリエールの先導に従って足早に街路を進んでいた。  アスナは、当然のこととしてユイをサーシャに預けてこようとしたのだが、ユイが頑固に一緒に行くと言って聞かなかったので、やむなく連れてきたのだ。無論、ポケットにはしっかりと転移結晶を用意している。いざとなれば——ユリエールには申し訳ないが——離脱して仕切りなおす手はずになっている。 「あ、そう言えば肝心なことを聞いてなかったな」  キリトが、前を歩くユリエールに話し掛けた。 「問題のダンジョンってのは何層にあるんだ?」  ユリエールの答えは簡素だった。 「ここ、です」 「……?」  アスナは思わず首をかしげる。 「ここ……って?」 「この、始まりの街の……中心部の地下に、大きなダンジョンがあるんです。シンカーは……多分、その一番奥に……」 「マジかよ」  キリトがうめくように言った。 「ベータテストの時にはそんなのなかったぞ。不覚だ……」 「そのダンジョンの入り口は、王宮——軍の本拠地の地下にあるんです。発見されたのは、キバオウが実権を握ってからのことで、彼はそこを自分の派閥で独占しようと計画しました。長い間シンカーにも、もちろん私にも秘密にして……」 「なるほどな、未踏破ダンジョンには一度しか湧出しないレアアイテムも多いからな。さぞかし儲かったろう」 「それが、そうでもなかったんです」  ユリエールの口調が、わずかに痛快といった色合いを帯びる。 「基部フロアにあるにしては、そのダンジョンの難易度は恐ろしく高くて……。基本配置のモンスターだけでも、六十層相当くらいのレベルがありました。キバオウ自身が率いた先遣隊は、散々追いまわされて、命からがら転移脱出するはめになったそうです。使いまくったクリスタルのせいで大赤字だったとか」 「ははは、なるほどな」  キリトの笑い声に笑顔で応じたユリエールだが、すぐに沈んだ表情を見せた。 「でも、今は、そのことがシンカーの救出を難しくしています。キバオウが使った回廊結晶は、先遣隊がマークしたものなんですが、モンスターから逃げ回ってるうちに相当奥まで入り込んだらしくて……。レベル的には、一対一なら私でもどうにか倒せなくもないモンスターなんですが、連戦はとても無理です。——失礼ですが、お二人は……」 「ああ、まあ、六十層くらいなら……」 「なんとかなると思います」  キリトの言葉を引き継ぎ、アスナは頷いた。六十層配置のダンジョンを、マージンを十分取って攻略するのに必要なレベルは七〇だが、現在アスナはレベル八七に到達し、キリトに至っては九〇を超えている。これならユイを守りながらでも十分にダンジョンを突破できるだろうと思って、ほっと肩の力を抜く。だがユリエールは気がかりそうな表情のまま、言葉を続けた。 「……それと、もう一つだけ気がかりなことがあるんです。先遣隊に参加していたプレイヤーから聞き出したんですが、ダンジョンの奥で……巨大なモンスター、ボス級の奴を見たと……」 「……」  アスナは、キリトと顔を見合わせる。 「ボスも六十層くらいの奴なのかしら……。六十層ボスってどんなのだったっけ?」 「えーと、確か……四本腕の、でっかい鎧武者みたいな奴だろう」 「あー、アレかぁ。……あんまり苦労はしなかったよね……」  ユリエールに向かって、もう一度頷きかける。 「まあ、それも、なんとかなるでしょう」 「そうですか、よかった!」  ようやく口許をゆるめたユリエールは、何かまぶしい物でも見るように目を細めながら、言葉を続けた。 「そうかぁ……。お二人は、ずっとボス戦を経験してらしてるんですね……。すみません、貴重な時間を割いていただいて……」 「いえ、今は休暇中ですから」  アスナはあわてて手を振る。  そんな話をしているうち、前方の街並みの向こうに巨大な白亜の建築物が姿を現しはじめた。四つの尖塔が、次層の底に接するほどの勢いでそびえ立っている。始まりの街最大の施設、通称『王宮』だ。ゲームが通常どおり運営されれば、何らかのイベントなりクエストなりが行われる場所だったのだろうが、開始直後からほぼ無人であり現在では軍が本拠地として占拠している。ゲート広場を挟んで向かい側にある漆黒の宮殿『黒鉄宮』にはプレイヤーの名簿である『生命の碑』があるためアスナも数回訪れたことがあるが、王宮にはいまだかつて一度も足を踏み入れたことはない。  ユリエールはまっすぐ王宮の正門には向かわず、広場をぐるりと迂回して城の裏手に回った。巨大な城壁と、それを取り巻く深い堀が、侵入者を拒むべくどこまでも続いている。人通りはまったく無い。  数分歩き続けたあと、ユリエールが立ち止まったのは、道から堀の水面近くまで階段が降りている場所だった。覗き込むと、階段の先端右側の石壁に暗い通路がぽっかりと口を開けている。 「ここから城の下水道に入り、ダンジョンの入り口を目指します。ちょっと暗くて狭いんですが……」  ユリエールはそこで言葉を切り、気がかりそうな視線をちらりとキリトの腕の中のユイに向けた。するとユイは心外そうに顔をしかめ、 「ユイ、こわくないよ!」  と主張した。その様子に、アスナは思わず微笑を洩らしてしまう。  ユリエールには、ユイのことは「一緒に暮らしているんです」としか説明していない。彼女もそれ以上のことは聞こうとしなかったのだが、さすがにダンジョンに伴うのは不安なのだろう。  アスナは安心させるように言った。 「大丈夫です、この子、見た目よりずっとしっかりしてますから」 「うむ。きっと将来はいい剣士になる」  キリトの発言に、アスナと目を見交わして笑うと、ユリエールは大きくひとつ頷いた。 「では、行きましょう!」 「でええええええええ」  右手の剣でずば———っとモンスターを切り裂き、 「りゃあああああああ」  左の剣でどか———んと吹き飛ばす。  久々に二刀を装備したキリトは、休暇中に貯まったエネルギーをすべて放出する勢いで次々と敵を蹂躙しつづけた。ユイの手を引くアスナと、金属鞭を握ったユリエールには出る幕がまったくない。全身をぬらぬらした皮膚で覆った巨大なカエル型モンスターや、黒光りするハサミを持ったザリガニ型モンスターなどで構成される敵集団が出現する度に、無謀なほどの勢いで突撃しては暴風雨のように左右の剣でちぎっては投げ、ちぎっては投げであっという間に制圧してしまう。  アスナは「やれやれ」といった心境だが、ユリエールは目と口を丸くしてキリトのバーサーカーっぷりを眺めている。彼女の戦闘の常識からは余りにかけ離れた光景なのだろう。ユイが無邪気な声で「パパーがんばれー」と声援を送っているので尚更緊迫感が薄れる。  暗く湿った地下水道から、黒い石造りのダンジョンに侵入してすでに数十分が経過していた。予想以上に広く、深く、モンスターの数も多かったが、キリトの二刀がゲームバランスを崩壊させる勢いで振り回されるため女性三人には疲労はまるでない。 「な……なんだか、すみません、任せっぱなしで……」  申し訳なさそうに首をすくめるユリエールに、アスナは苦笑しながら答えた。 「いえ、あれはもう病気ですから……。やらせときゃいいんですよ」 「なんだよ、ひどいなぁ」  群を蹴散らして戻ってきたキリトが、耳ざとくアスナの言葉を聞きつけて口を尖らせた。 「じゃあ、わたしと代わる?」 「……も、もうちょっと」  アスナとユリエールは顔を見合わせて笑ってしまう。  銀髪の鞭使いは、左手を振ってマップを表示させると、シンカーの現在位置を示すフレンドマーカーの光点を示した。このダンジョンのマップが無いため、光点までの道は空白だが、もう全体の距離の七割は詰めている。 「シンカーの位置は、数日間動いていません。多分安全エリアにいるんだと思います。そこまで到達できれば、あとは結晶で離脱できますから……。すみません、もう少しだけお願いします」  ユリエールに頭を下げられ、キリトは慌てたように手を振った。 「い、いや、好きでやってるんだし、アイテムも出るし……」 「へえ」  アスナは思わず聞き返した。 「何かいいもの出てるの?」 「おう」  キリトが手早くウインドウを操作すると、その表面に、どちゃっという音を立てて赤黒い肉塊が出現した。グロテスクなその質感に、アスナは顔を引き攣らせる。 「な……ナニソレ?」 「カエルの肉! ゲテモノなほど旨いって言うからな、あとで料理してくれよ」 「ぜったい嫌よ!!」  アスナは叫ぶと、自分もウインドウを開いた。キリトのそれと共通になっているアイテム欄に移動し、『スカベンジトードの肉×二四』という表示をドラッグして容赦なくゴミ箱マークに放り込む。 「あっ! あああぁぁぁ……」  世にも情けない顔で悲痛な声を上げるキリトを見て、我慢できないといったふうにユリエールがお腹をおさえ、くっくっと笑いを洩らした。その途端。 「お姉ちゃん、初めて笑った!」  ユイが嬉しそうに叫んだ。彼女も満面の笑みを浮べている。  それを見て、アスナはそういえば——、と思い返すことがあった。昨日、ユイが発作を起こしたのも、軍の連中を撃退し、子供たちが一斉に笑った直後だった。どうやら少女は周囲の人の笑顔に特別敏感らしいと思われる。それが少女の生来の性格なのか、あるいは今までずっと辛い思いをしてきたからなのか——。アスナは思わずユイを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。いつまでも、この子の隣で笑っていようと心の中で誓う。 「さあ、先に進みましょう!」  アスナの声に、一行は再びさらなる深部を目指して足を踏み出した。  ダンジョンに入ってからしばらくは水中生物型が主だったモンスター群は、階段を降りるほどにゾンビだのゴーストタイプのオバケ系統に変化し、アスナの心胆を激しく寒からしめたが、キリトの二本の剣は意に介するふうもなく現れる敵を瞬時に屠りつづけた。  通常では、高レベルプレイヤーが適正以下の狩場で暴れるのはとても褒められたことではないが、今回は他に人もいないので気にする必要はない。時間があればサポートに徹してユリエールのレベルアップに協力するところだが、今はシンカー救出が最優先である。  マップに表示される、現在位置とシンカーの位置を示す二つの光点は着実な速度で近づいてゆき、やがて何匹目ともしれぬ黒い骸骨剣士をキリトの剣がばらばらに吹き飛ばしたその先に、一際明るい、暖かな光の漏れる通路が目に入った。各ダンジョンで共通の色あいとなっているそのオレンジ色は、間違いなく安全エリアの照明だ。 「シンカー!」  もう我慢できないというふうに一声叫んだユリエールが、金属鎧を鳴らして走りはじめた。剣を両手に下げたキリトと、ユイを抱いたアスナもあわててその後を追う。  右に湾曲した通路を、明かり目指して数秒間走ると、やがて前方に大きな十字路と、その先にある部屋が目に入った。  部屋は、暗闇に慣れた目にはまばゆいほどの光に満ち、その入り口に一人の男が立っている。逆光のせいで顔は良く見えないが、こちらに向かって激しく両腕を振り回している。 「ユリエ—————ル!!」  こちらの姿を確認した途端、男が大声で鞭使いの名を呼んだ。ユリエールも左手を振り、一層走る速度を速める。 「シンカ————!!」  涙まじりのその呼び声にかぶさるように、男の声が—— 「——来ちゃだめだ————ッ!! その通路は……ッ!!」  それを聞いて、アスナはぎょっとして走る速度をゆるめた。だがユリエールにはもう聞こえていないらしい。部屋に向かって必死に駆け寄っていく。  その時。  部屋の手前数メートルで、三人の走る通路と直角に交わっている道の右側死角部分に、不意に黄色いカーソルが出現した。一つだけだ。アスナは慌てて名前を確認する。表示は『The Soulslasher』——。 「だめ——っ!! ユリエールさん、戻って!!」  アスナは絶叫した。間違いなくボスモンスターだ。黄色いカーソルは、すうっと左に動き、十字の交差点へ近づいてくる。このままでは出会い頭にユリエールと衝突する。もうあと数秒もない。 「くっ!!」  突然、アスナの左前方を走っていたキリトが、かき消えた——ように見えた。実際には恐ろしい速度でダッシュしたのだ。ずばんという衝撃音で周囲の壁が振動する。  瞬間移動にも等しい勢いで数メートルの距離を移動したキリトは、背後から右手でユリエールの体を抱きかかえると、左手の剣を床石に思い切り突き立てた。すさまじい金属音。大量の火花。空気が焦げるほどの急制動をかけ、十字路のぎりぎり手前で停止した二人の直前の空間を、ごおおおおっと地響きを立てて巨大な黒い影が横切っていった。  黄色いカーソルは、左の通路に飛び込むと十メートルほど移動してから停止した。ゆっくりと向きを変え、再び突進してくる気配。  キリトはユリエールの体を離すと、床に突き刺さった剣を抜き、左の通路に飛び込んでいった。アスナも慌ててその後を追う。  呆然と倒れるユリエールを抱え起こし、そのまま交差点の向こうへと押しやる。ユイも腕から降ろし、安全エリア側に進ませると、アスナは細剣を抜いて左方向へと向き直った。  二刀を構え、立ち止まったキリトの背中が目に入る。その向こうに浮いているのは——身長二メートル半はあろうかという、ぼろぼろの黒いローブをまとった骸骨だった。  フードの奥と、袖口からのぞく太い骨は濡れたような深紅に光っている。暗く穿たれた眼窩には、そこだけは生々しい、血管の浮いた眼球がはまり、ぎょろりと二人を見下ろしている。右手に握るのは長大な黒い鎌だ。凶悪に湾曲した、鈍く光る刃からは、ぽたりぽたりと粘っこい赤い雫が垂れ落ちている。いわゆる死神の姿そのものである。  死神の眼球がぐるりと動き、まっすぐにアスナを見た。その途端純粋な恐怖に心臓を鷲掴みにされたような悪寒が全身を貫く。  でも、レベル的にはたいしたことないはず。  そう思って細剣を構えなおしたとき、前に立つキリトがかすれた声で言った。 「アスナ、いますぐ他の三人を連れて安全エリアに入って、クリスタルで脱出しろ」 「え……?」 「こいつ、やばい。俺の識別スキルでもデータがわからない。強さ的には九十層クラスだ……」 「!?」  アスナも息を飲んで体をこわばらせる。その間にも、死神は徐々に空中を移動し、二人に近づいてくる。 「俺が時間を稼ぐから、早く逃げろ!!」 「き、キリトくんも、一緒に……」 「後から行く! 早く……!!」  最終的離脱手段である転移結晶も、万能の道具ではない。クリスタルを握り、転移先を指定してから実際にテレポートが完了するまで、数秒間のタイムラグが発生する。その間にモンスターの攻撃を受けると転移がキャンセルされてしまうのだ。パーティーの統制が崩壊し、勝手な離脱をするものが現れるとテレポートの時間すら稼げず死者が出てしまうのはそういう理由による。  アスナは迷った。四人が先に転移してからでも、キリトの脚力をもってすれば、ボスに追いつかれることなく安全エリアまで到達できるかもしれない。しかし先程のボスの突進速度はすさまじいものだった。もし——先に脱出して、そのあと、彼が現れなかったら——。それだけは耐えられない。  アスナはちらりと後ろを振り返った。こちらを見つめるユイと視線が合った。  ごめんね、ユイちゃん。ずっと一緒だって言ったのにね……。  心の中でつぶやき、アスナは叫んだ。 「ユリエールさん、ユイを頼みます! 三人で脱出してください!」  凍りついた表情でユリエールが首を振る。 「だめよ……そんな……」 「はやく!!」  その時だった。ゆっくりと鎌を振りかぶった死神が、ローブから瘴気を撒き散らしながら恐ろしい勢いで突進を開始した。  キリトが両手の剣を十字に構え、アスナの前に仁王立ちになった。アスナは必死にその背中に抱きつき、右手の剣をキリトの二刀に合わせた。死神は、三本の剣を意に介さず、大鎌を二人の頭上めがけて叩き降ろしてきた。  赤い閃光。衝撃。  アスナは自分がぐるぐると回転するのを感じた。まず地面に叩きつけられ、跳ね返って天井に激突し、再び床へと落下する。呼吸が止まり、視界が暗くなる。  朦朧とした意識のままキリトと自分のHPバーを確認すると、両方とも一撃で半分を割り込んでいた。無情なイエロー表示は、次の攻撃には耐え切れないことを意味している。立ち上がらないと——。そう思うが、体が動かない——。  ——と、不意に、傍らに立つ人影があった。小さなその姿。長い黒髪。背後にいたはずのユイだった。恐れなど微塵もない視線でまっすぐ巨大な死神を見据えている。 「ばかっ!! はやく、逃げろ!!」  必死に上体を起こそうとしながら、キリトが叫んだ。死神はふたたびゆっくりとしたモーションで鎌を振りかぶりつつある。あれほどの範囲攻撃に巻き込まれたら、ユイのHPは確実に消し飛んでしまう。アスナもどうにか口を動かそうとした。だが唇がこわばって言葉が出ない。  だが、次の瞬間、信じられないことが起こった。 「だいじょうぶだよ、パパ、ママ」  言葉と同時に、ユイの体がふわりと宙に浮いた。ジャンプしたのではない。見えない羽根で舞い上がるように移動し、二メートルほどの高さでぴたりと静止した。次いで、右手を高くかかげる。  ごうっ!! という轟音と共に、ユイの右手を中心に紅蓮の炎が巻き起こった。炎は一瞬広く拡散したあとすぐに凝縮し、細長い形にまとまり始めた。みるみるうちにそれは巨大な剣へと姿を変えていく。焔色に輝く刀身が炎の中から現れ、後方へと伸び続ける。  やがてユイの右手に出現した巨剣は、優に彼女の身長を上回る長さを備えていた。熔融する寸前の金属のような輝きが通路を照らし出す。剣の炎にあおられるように、ユイの身に着けていた分厚い冬服が一瞬にして燃え落ちた。その下からは彼女が最初から着ていた白いワンピースが現れる。不思議なことに、ワンピースも、長い黒髪も炎に巻かれながらも影響を受ける様子は一切無い。  自分の身の丈を超える剣を、ぶん、と一回転させ—— 「いやああああああ!!」  炎の軌道を描きながら、ユイは恐るべきスピードで黒い死神へと撃ちかかった。  あくまでCPUが単純なアルゴリズムに基づいて動かしているにすぎないボスモンスター、その血走った眼球に、アスナは明らかな恐怖の色を見た——ような気がした。  炎の渦を身にまとったユイが、轟音とともに空中を突進していく。死神は、自分よりはるかに小さな少女を恐れるかのように大鎌を前方に掲げ、防御の姿勢をとった。そこに向かって、ユイは真っ向正面から巨大な火焔剣を思い切り撃ち降ろした。  一際激しく炎を噴く刀身が、横に掲げられた大鎌の柄と衝突した。一瞬両者の動きが止まる。  と思う間もなく、再びユイの火焔剣が動き始めた。途方も無い熱量で金属を灼き切るがごとく、じわじわと赤い鎌の柄に発光する刃が食い込んでいく。ユイの長い髪とワンピース、そして死神のローブが千切れんばかりの勢いで後方にたなびき、時折飛び散る巨大な火花がダンジョン内を明るいオレンジ色に染め上げる。  やがて——。  轟、という爆音とともに、とうとう死神の鎌が真っ二つに断ち割られた。直後、いままで蓄積していたエネルギーすべてを解き放ちながら、炎の柱と化した巨剣がボスの頭蓋骨の中央へと叩きつけられた。 「!!」  アスナとキリトは、その瞬間出現した大火球のあまりの勢いに、思わず目を細めて腕で顔をかばった。ユイが剣を一直線に振り下ろすと同時に火球が炸裂し、紅蓮の渦は巨大な死神の体を巻き込みながら通路の奥へとすさまじい勢いで流れ込んでいった。大轟音の裏に、かすかな断末魔の悲鳴が響いた。  火炎のあまりのまばゆさに思わず閉じてしまった目を開けると、そこにはもうボスの姿は無かった。通路のそこかしこに小さな残り火がゆらめき、ぱちぱちと音を立てている。その真っ只中に、ユイひとりだけがうつむいて立ち尽くしていた。床に突き立った火焔剣が、出現したときと同じように炎を発しながら溶け崩れ、消滅した。  アスナは、ようやく力の戻った体を起こし、細剣を支えにゆっくりと立ち上がった。わずかに遅れてキリトも立つ。二人はよろよろと少女に向かって数歩あゆみ寄った。 「ユイ……ちゃん……」  アスナがかすれた声で呼びかけると、少女はゆっくりと振り向いた。小さな唇は微笑んでいたが、大きなふたつの瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。  ユイは、じっとアスナとキリトを見つめると、やがて口を開き、ゆっくりと言った。 「パパ……ママ……。ぜんぶ、思い出したよ……」  王宮地下迷宮最深部、安全エリアとなっている正方形の部屋。入り口は一つで、中央にはつるつるに磨かれた黒い立方体の石机が設置されている。  アスナとキリトは、石机にちょこんと腰掛けたユイを無言のまま見つめていた。ユリエールとシンカーにはひとまず先に脱出してもらったので、今は三人だけだ。  記憶が戻った、とひとこと言ってから、ユイは数分間沈黙を続けていた。その表情はなぜか悲しそうで、言葉をかけるのがためらわれたが、アスナは意を決してそっと話し掛けた。 「ユイちゃん……。思い出したの……? いままでの、こと……」  ユイはなおもしばらくアスナを見つめつづけていたが、やがてこくりと頷いた。泣き笑いのような表情のまま、小さく唇を開く。 「はい……。全部、説明します——キリトさん、アスナさん」  その丁寧なことばを聞いた途端、アスナの胸はやるせない予感にぎゅっと締め付けられた。何かが終わってしまったのだという、切ない確信。  四角い部屋の中に、ユイの言葉がゆっくりと流れはじめた。 「この世界、『ソードアート・オンライン』は、ひとつの巨大な制御システムのもとに運営されています。システムの名前は『カーディナル』、それが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。 「カーディナルはもともと、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下部プログラムによって世界のすべてを調整する……。モンスターやNPCのアクション、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。——しかし、ひとつだけ人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」 「GM……」  キリトがぽつりと呟いた。 「ユイ、君はゲームマスターなのか……? アーガスのスタッフ……?」  ユイは数秒間沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。 「……カーディナルとその開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーヴギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニターし、問題を抱えたプレイヤーのもとを訪れて話を聞く……。『メンタルヘルス・カウンセリングプログラム』、MHCP試作一号、コードネーム『Yui』。それがわたしです」  アスナは驚愕のあまり息をのんだ。言われたことを即座に理解できない。 「プログラム……? AIだっていうの……?」  かすれた声で問い掛ける。ユイは、悲しそうな笑顔のままゆっくりと頷いた。 「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています。——偽物なんです、ぜんぶ……この涙も……。ごめんなさい、アスナさん……」  ユイの両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、光の粒子となって蒸発した。アスナはゆっくりと一歩ユイのほうに歩み寄った。手を差し伸べるが、ユイはそっと首を振る——アスナの抱擁を受ける資格などないのだ——というように——。  いまだ信じることができず、アスナは言葉をしぼり出した。 「でも……でも、記憶がなかったのは……? AIにそんなこと起きるの……?」 「……二年前……。正式サービスが始まった日……」  ユイは瞳を伏せ、説明を続けた。 「何が起きたのかはわたしにも詳しくはわからないのですが、カーディナルが予定にない命令を下部プログラム群に下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……。わたしの他のケア用プログラムは、不要なものとして全て消去されました。しかしわたしは試作品として正式に登録されていなかったためか、管理者権限を奪われただけで存在は残されたのです。 「プレイヤーへの接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニターだけを続けました。状態は——最悪と言っていいものでした……。ほとんどすべてのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すらいました。わたしはそんな人たちの心をずっと見つづけてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかしプレイヤーにこちらから接触することはできない……。義務だけがあり権利のない矛盾した状況のなか、わたしは徐々にエラーが蓄積し、崩壊していきました……」  しんとした地下迷宮の底に、銀糸を震わせるようなユイの細い声が流れる。アスナとキリトは、言葉もなく聞き入ることしかできない。 「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ二人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした……。喜び……やすらぎ……でもそれだけじゃない……。この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその二人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました……。そんなルーチンは無かったはずなのですが……。あの二人のそばに行きたい……直接、わたしと話をしてほしい……。すこしでも近くにいたくて、わたしは毎日、二人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、彷徨いました……。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」 「それが、あの二十二層の森なの……?」  ユイはゆっくりと頷いた。 「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お二人に……会いたかった……。森の中で、お二人の姿を見たとき……すごく、嬉しかった……。おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……。わたし、ただの、プログラムなのに……」  涙をいっぱいに溢れさせ、ユイは口をつぐんだ。アスナは言葉にできない感情に打たれ、両手を胸の前でぎゅっと握った。 「ユイちゃん……あなたは、ほんとうのAIなのね。ほんものの知性を持っているんだね……」  ささやくように言うと、ユイはわずかに首を傾けて答えた。 「わたしには……わかりません……。わたしが、どうなってしまったのか……」  その時、いままで沈黙していたキリトがゆっくりと進み出てきた。 「知性とは……自己の相対化ができるということだ。自分の望みを言葉にできるということだよ」  柔らかい口調で話し掛ける。 「ユイの望みはなんだい?」 「わたし……わたしは……」  ユイは、細い腕をゆっくりと二人のほうに伸ばした。 「ずっと、いっしょにいたいです……パパ……ママ……!」  アスナは溢れる涙をぬぐいもせず、ユイに駆け寄るとその小さな体をぎゅっと抱きしめた。 「ずっと、一緒だよ、ユイちゃん」  少し遅れて、キリトの腕もユイとアスナを包み込む。 「ああ……。ユイは俺たちの子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」  だが——ユイは、アスナの胸のなかで、そっと首を振った。 「え……」 「もう……遅いんです……」  キリトが、戸惑ったような声でたずねる。 「なんでだよ……遅いって……」 「この場所は、ただの安全エリアじゃないんです……。GMがシステムにアクセスするために設置されたコンソールなんです」  ユイがちらりと視線を向けると、部屋の中央の黒い石に突然数本の光の筋が走った。直後、ぶん……と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がる。 「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないように配置されたものだと思います。わたしはこのコンソールからカーディナルにアクセスし、オブジェクトイレイサーを呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正機能で破損したデータを復元できたのですが……それは同時に、いままで管理外にあったわたしにカーディナルが注目してしまったということでもあります。今、コアシステムがわたしのプログラムを走査しています。すぐに異物という結論が出され、わたしは消去されてしまうでしょう。もう……あまり時間がありません……」 「そんな……そんなの……」 「なんとかならないのかよ! この場所から離れれば……」  二人の言葉にも、ユイは黙って微笑するだけだった。ふたたびユイの白い頬を涙が伝った。 「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです」 「嫌! そんなのいやよ!!」  アスナは必死に叫んだ。 「これからじゃない!! これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」 「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎとめてくれた……」  ユイはまっすぐにアスナを見つめた。その体を、かすかな光が包み始めた。 「ユイ、行くな!!」  キリトがユイの手を握る。ユイの小さい指が、そっとキリトの指を掴む。 「パパとママのそばにいると、みんなが笑顔になれた……。わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしのかわりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」  ユイの黒髪やワンピースが、その先端から光の粒子を撒き散らして消滅をはじめた。ユイの笑顔がゆっくりと透き通っていく。重さが薄れていく。 「やだ! やだよ!! ユイちゃんがいないと、わたし笑えないよ!!」  溢れる光に包まれながら、ユイはにこりと笑った。消える寸前の手がそっとアスナの頬を撫でた。 『ママ、わらって……』  アスナの頭の中にかすかな声が響くと同時に、ひときわまばゆく光が飛び散り、それが消えるともう、アスナの腕のなかはからっぽだった。 「うわあああああ!!」  抑えようもなく声を上げながら、アスナは膝をついた。石畳の上にうずくまって、子供のように大声で泣いた。つぎつぎと地面にこぼれ、はじける涙の粒が、ユイの残した光のかけらと混じり合い、消えていった。    四日目 ending epilogue  昨日までの冷え込みが嘘のような、あたたかい微風が芝生の上をそっと吹き抜けていく。陽気に誘われたのか、小鳥が数羽庭木の枝にとまり、人間たちの様子を興味深そうに見下ろしている。  サーシャの教会の広い前庭には、食堂から移動させた大テーブルが設置され、時ならぬガーデンパーティーが催されていた。大きなグリルから魔法のように料理が取り出されるたび、子供たちが盛大な歓声を上げる。 「こんな旨いものが……この世界にあったんですねえ……」  昨夜救出されたばかりの『軍』最高責任者シンカーが、アスナが腕を奮ったバーベキューにかぶりつきながら感激の表情で言った。隣ではユリエールがにこにこしながらその様子を眺めている。第一印象では冷徹な女戦士といった風情の彼女だったが、シンカーの横にいると陽気な若奥さんにしか見えない。  そのシンカーは、昨日は顔も見る余裕がなかったのだが、こうして改めて同じテーブルについてみると、とても巨大組織『軍』のトップとは思えない穏やかな印象の人物だった。  背はアスナより少し高い程度、ユリエールよりは明らかに低いだろう。やや太めの体を地味な色合いの服に包み、武装は一切していない。隣のユリエールも今日は軍のユニフォーム姿ではない。  シンカーは、キリトの差し出すワインのボトルをグラスで受け、改めて、という感じでぐっと頭を下げた。 「アスナさん、キリトさん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」 「いや、俺も向こうでは『MMOトゥデイ』にずいぶん世話になりましたから」  笑みを浮べながらキリトが答える。 「なつかしい名前だな」  それを聞いたシンカーは丸顔をほころばせた。 「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればなんぼかマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」  テーブルの上に和やかな笑い声が流れる。 「それで……『軍』のほうはどうなったんですか……?」  アスナが訊ねると、シンカーは表情をあらためた。 「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと早くそうすべきでしたね……。私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。——軍自体も解散しようと思っています」  アスナとキリトは軽く目を見張った。 「それは……ずいぶん思い切りましたね」 「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……。ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」  ユリエールがそっとシンカーの手を握り、言葉を継いだ。 「——軍が蓄積した資財は、メンバーだけでなく、この街の全住民に均等に分配しようと思っています。いままで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……。サーシャさん、ごめんなさいね」  いきなりユリエールとシンカーに深々と頭を下げられ、サーシャは眼鏡の奥で目をぱちくりさせた。慌てて顔の前で両手を振る。 「いえ、そんな。軍の、いいほうの人達にはフィールドで子供たちを助けてもらったこともありますから」  率直なサーシャの物言いに、再び場に和やかな笑いが満ちた。 「あの、それはそうと……」  首をかしげて、ユリエールが言った。 「昨日の女の子、ユイちゃん……はどうしたんですか……?」  アスナはキリトと顔を見合わせたあと、微笑しながら答えた。 「ユイは——お家に帰りました……」  右手の指をそっと胸元にもっていく。そこには、昨日まではなかった、細いネックレスが光っていた。華奢な銀鎖の先端には、同じく銀のペンダントヘッドが下がり、中央には大きな透明の石が輝いている。類滴型の宝石を撫でると、わずかなぬくもりが指先に沁みるような気がした。  あのとき——。  ユイが光に包まれて消滅したあと、石畳に膝をついてこらえようもなく涙をこぼすアスナの傍らで、不意にキリトが叫んだ。 「カーディナル!!」  涙に濡れた顔を上げると、キリトが部屋の天井を見据えて絶叫していた。 「そういつもいつも……思い通りになると思うなよ!!」  ぐいと腕で両目をぬぐうと、彼は突然部屋の中央の黒いコンソールに飛びついた。表示されたままのホロキーボードに猛烈な勢いで指を走らせ始める。  たちまちキリトの周囲には無数のウインドウが出現し、高速でスクロールする文字列の輝きが部屋を照らし出した。呆然とアスナが見守るなか、キリトの指はどんどん速度を上げ、キーボード全体に青白いスパークが閃きはじめた。 「行くな……ユイ……ユイ……!」  うわごとのように呟くキリトは、もう周囲のウィンドウを見てさえいない。両目を半眼に閉じ、直接システムと交信しているかのように思えた。  緊迫した数秒間が過ぎ去ったあと、不意に黒い岩でできたコンソール全体が青白くフラッシュし、直後、破裂音とともにキリトがはじき飛ばされた。 「キ、キリトくん!!」  あわてて床に倒れた彼のそばににじり寄る。  頭を振りながら上体を起こしたキリトは、憔悴した表情の中に薄い笑みを浮べると、アスナに向かって握った右手を伸ばした。わけもわからず、アスナも手を差し出す。  キリトの手からアスナの手のひらにこぼれ落ちたのは、大きな涙のかたちをしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。 「こ、これは……?」 「——全部は無理だったけど……ユイのコアプログラム部分をどうにかシステムから切り離して、圧縮してオブジェクト化した……。ユイの心だよ、その中にある……」  それだけ言うと、キリトは力を使い果たしたように床にごろんところがり、目を閉じた。アスナは手の中の宝石を覗き込んだ。 「ユイちゃん……そこに、いるんだね……。わたしの……ユイちゃん……」  ふたたび、とめどなく涙が溢れ出した。ぼやける光の中で、アスナに答えるように、クリスタルの中心が一回、強くとくん、とまたたいた。  別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供たちに手を振り、転移ゲートから二十二層に帰ってきたアスナとキリトを、森の香りがする冷たい風が迎えた。わずか三日の旅だったが、ずいぶん長く留守にしていたような気がして、アスナは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。  なんという広い世界だろう——。  アスナはあらためてこの不思議な空中世界に思いを馳せた。無数にあるといっていい層ひとつひとつに、そこに暮らす人々がいて、泣いたり笑ったりしながら毎日を送っている。いや、大多数の人にとっては辛いことのほうがはるかに多いだろう。それでも、皆が自分の戦いをたたかっているのだ。  わたしの居る場所は……。  アスナは我が家へと続く小道を眺め、次いで上層の底を振り仰いだ。  ——前線に戻ろう。不意にそう思った。  近いうち、わたしは再び剣を取り、わたしの戦場に戻らなくてはならない。いつまでかかるかわからないけど、この世界を終わらせて、みんながもう一度、本当の笑顔を取り戻せるまで戦うのだ。みんなに喜びを——。それが、ユイの望んだことなのだから。 「ね、キリトくん」 「ん?」 「もしゲームがクリアされて、この世界がなくなったら、ユイちゃんはどうなるの?」 「ああ……。容量的にはぎりぎりだけどな。俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになっている。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」 「そっか」  アスナは体の向きを変え、ぎゅっとキリトに抱きついた。 「じゃあ、向こうでまたユイちゃんに会えるんだね。わたしたちの、初めての子供に」 「ああ。きっと」  アスナは、二人の胸の間で輝くクリスタルを見下ろした。ママ、がんばって……。耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした。 [#地から1字上げ](Sword Art Online外伝2 『Four days』 終)